モンスターの根底に
2004/10/17 シネマライズ


「モンスター」
(2003米/独)
監督:パティ・ジェンキンス
脚本:パティ・ジェンキンス
出演:シャーリーズ・セロン 、クリスティナ・リッチ 、ブルース・ダーン 、スコット・ウィルソン 、プルイット・テイラー・ヴィンス


気づけば早くも23時に時計が差し掛かりつつ。
今日は台風のおかげでいつもよりもだいぶ早く帰宅。PCの前にもいつもより早く来たはずなのですが、結局書き出すのはいつもとさして変わらない時間に。
原因ははっきりしていて、今日は「モンスター」について書こうと思っていたのですが、どう無理にひねり出そうとしても脳ミソが拒絶。まったく筆が進まず、気晴らしというか現実逃避というかそんな感じで、ヒト様の文章などをWebでちらちら見ていたら今の時間になったというわけです。要はたいして書くことも無い映画だったとそう言ってしまえれば簡単なのですが、一言でそういえるほど単純なものでは無くて、全く困った作品ですねと。

それにしても、あの作品は見た後感動するのが"正常"な反応なのか、それとも憤るのが"正常"なのか、いや"正常"な反応が何であるかは重要ではないので放っておくとして、より重要なのはアレを"撮った側"は何を意図して作っているのかということですよ。

もし"撮った側"が意図していたモノが"彼女"を"観た側"に理解させ、一連の事件の"動機"を理解させることだとするなら、作品中では最初の数分の、"彼女"の子供の頃の心理と体験が語られるシーンが恐らく最も重要になるのではないかと。しかし、このシーンは"数分"という単位でしかなく、この作品の大半は別の部分に焦点が当たってしまっているわけです。そして思うに、その"大半"の部分で捉えられる比較的日常的な行動ですら、この数分で"描かれきれなかった心理"こそが所謂"動機"であり、これを理解せずには不自然極まりなく映るのではと、そう思うわけです。つまり、この"動機"になりうる部分を"数分"で済ませることは、"彼女"を理解させるという目的にはそぐわず、もし"撮った側"が多少なりとも賢ければこんな構造にはしないだろうなと。つまり"撮った側"の意図は別にあると、そう言わざるを得ないわけです。
では他の意図を探ってみると"社会への批判"なのか"もう一方の彼女への批判"なのか、"2人の愛について"なのか、それとも他に何かあったのか、それは判然としない印象を受けます。そもそもこの状況に陥った過程を"数分"で済ませておきながら、これらを語ろうとするにはあまりに底の浅い構え方だと、そんな気がするわけですよ。比較的重点を置いていたように思える"2人の愛"ですら、"彼女"が自分の投影を"もう一方の彼女"に見たから発生したわけで、要は"彼女"が"もう一方の彼女"程だった頃に体験し、構築したであろう経験と思考が"動機"となり発生しているわけですから、その部分を等閑にしてはダメなんですよ、そもそもが。
で、結局私の中で残った"撮った側"の意図というのは、敢えてさまざまな要因を振りまき中途半端に見せることによって、"彼女"を理解不能な"モンスター"に仕立て上げてしまっている(ように見える)厭らしいモノ。そしてそんなものが根底にあるからこそ、語るべきものがほとんど語られず、ほとんど意味の無いシーンがタラタラと続けられ、それなりにインパクトのあるシーンだけが強調されるという、最も安っぽく観えてしまうモノに仕上がったとそんな感じですかね。まさに、デレクの対極といった感じですね。

と、無理に捻っていたときには出なかったものが意外とすらすらと出てきました。
そうそう、ついでに言うなら音楽もなんとなくミスマッチな感じでしたね。これも安っぽさを強調していたようにも・・・。もうやめときます。
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by nothing_but_movie | 2004-10-20 23:56 | Movie(M)
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