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実態のない死というものを
2005/4/24シネマ メディアージュ



「Sea Inside, the」(「海を飛ぶ夢」)
(2004スペイン)


監督:アレハンドロ・アメナーバル
出演:ハビエル・バルデム、べレン・ルエダ、ロラ・ドゥエニャス、マベル・リベラ、セルソ・ブガーリョ、クララ・セグラ、タマル・ノバス、フランシス・ガリード



思いの外というか、ほとんど何も情報を入れないで見に行ったのですが、序盤で予想した展開は全く裏切られ、比較的掘下げの浅い作品かなとも思ったのですが、否、正しくは"掘下げ"が浅いわけではなく、"視点"の問題だったようです。要はこの映画のコンセプト自体が私が考えていたものとは根本的にずれていたと、ただそれだけのことで作品としては非常に印象的で明快なものを持つすばらしい作品でした。"死ぬ"とか"生きる"とか、"自殺"とか"他殺"とか"尊厳死"とか、そのような曖昧な概念を扱う場合には、そのもの自体を直接扱うのではなくて、その周辺を示すうことでそのテーマを少しずつ浮き彫りにするという手法もまた、このようにありなのではないのかと。


それにしても"尊厳"とは改めて考えてみると、実態の伴わない言葉だなと。その実態を伴わない言葉を頭に冠する尊厳死とはつまるところ"死"でしかないのです。死は尊厳とは異なり、ある程度の実態を伴う言葉ですが、前述のように"曖昧"な考え方です。一般に"死"とは定められた生体反応がなくなったと判断された時点で下される"決定"でしかなく、細胞生物学的に見た場合などはまだまだ"生きている"場合が多いわけで、そういう意味では人が一般的に下す"死"という判断は人としての死でしかないわけです。

そこで人としての"死"とは何かと考えてみるのですが、私はやはり脳死だと思っていますし、これは今となっては大部分の日本人からの合意を得ていることだと思っています。
当たり前ですが脳死の判定は脳死している人間が「死んでます」と自己申告するわけではなく、脳が生きている人間が極力主観を排除した形で行っているわけですが、この制度が成立しているのはこれまた当たり前なのですが脳が死んでいると判断される人間が、その時点での意思を表明しない、あるいはできないからなのです。これはすなわち、"意思の表明"こそが人間としての"生"であり、それが無いことは人間としての"死"であると定義しているだけであって、本当に人間として死んでいるかどうか、つまり"意思"が本当にないかどうかなんてのはそれこそ脳死になってみなくては分からないことなのです。

意思が無(あるいは表明できない)ければ、文字通り有無も言わせず死なせてしまうくせに、その人間の意思が"死にたい"と表明しているにも関わらず死なさないのはなぜかという問題が所謂"尊厳死"に纏わる問題だと私は認識しており、先ほど"実体が無い"といった"尊厳"とはすなわち"意思"のことだと私は思っています。つまり尊厳の用法としてありがちな"尊厳を踏みにじる"とはすなわち、"意思を踏みにじる"ことであり"尊厳(を保った)死"とは"意思(を持った)死"のことだと認識しています。
このことを合わせて考えるなら、この作品は見事にその"意思を保つ"という行為を、また、周囲の人間がその意思を踏みにじらないつまり、理解し尊重するという行為に至るまでを見事に描いていたなと。つまり実態としては単なる死である"尊厳死"というもの自体にフォーカスするのではなく、その周囲、所謂"成立条件"を描くことによってそのものが浮き彫りにすることに成功しているのです。

だからこそこのような曖昧で、重たく、今もって結論の出ないテーマをやわらかく、しかしはっきりとした印象を持ち、それでいて押し付けがましくなく描けたのではないかと。

さらにより傾倒的に考えるなら、この作品の随所には、人間の思想や他者への思い、そして存在し得ないものへの思い等、所謂人間らしさとか言われるものがちりばめられている。これらを人間の成立条件と考えるならこの作品は人という曖昧でとらえどころの無いものを見事に立体的に浮き彫りにした作品であるとも言えそうだ。人は"誕生"という始点から"死"という終点を結ぶ直線上を2次元的に歩む存在では無く、時間や空間、もちろん肉体にも囚われることなく存在している。海を飛ぶ夢のあのシーンはそのように見える。
by nothing_but_movie | 2005-05-06 17:46 | Movie(S)
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