犬が群がる映画 (「ドッグ・ヴィル」)
a0008075_13748.jpg2004/03/28(シネマライズ)
邦題:ドッグヴィル(2003 丁抹「dog vill)
監督:ラース・フォン・トリアー
製作:ヴィベケ・ウィデロフ
脚本:ラース・フォン・トリアー
出演:ニコール・キッドマン/ローレン・バコール


ラース・フォン・トリアー監督は好きです。彼の作品をはじめて観たのは、大学生の頃。バイト中に、レンタルビデオ店でレンタル落ちの「キングダム」を買ってきたのがきっかけ。
その頃私は、全盛期を迎えていた、80年代ホラー映画。にはまっていて、10本か20本ほど、ホラーのビデオばかりを買ってきたのだけど、その中に「キングダム」1章と2章があった。

このキングダムがまた秀作で、なんとも癖になった。
ちなみに独特の手持ちカメラのブレと、独特の編集はこの時から既にこの監督の持ち味のようです(ほとんどが編集とか撮影を担当した人の味なんだろうけど)。
この映画(元々はデンマークのTVシリーズです)は何がすごいかというと、ホラーにありがちな「善⇔悪」の対立が無く、「悪⇔悪」の対立になっていて、しかも専らこの対立は、人と人の間で繰り広げられるところ。
彼の原点が凝縮されたこの作品を、まだ見たことの無い方はぜひ観てみてください。
今まで完結していなかったのですが、7月にコンプリートボックスなるものが、出るようです。買いですね。

さて、本題。「Dogvill」。この作品は至極単純。ラース作品はこねくり回しても結局テーマは単純。しかし彼のすごさは、その単純なテーマを嫌というほど見せつけることだろう。
今回、この作品でテーマとなっていたのは、人間の「醜さ」というか「利己主義」というか、最後のニコールとその父親との台詞からとるなら、「傲慢」をテーマに、生焼けのグロテスクな料理をこれでもかと出しまくる。

本質的には資本主義的が根底にあると考えるとわかりやすい気がする。
つまり、ニコール・キッドマン扮するグレースは村にかくまって貰う事と引換えに「労働」と、後半からは「性」をも提供する。グレースはこれらを提供しない限り、村から出て行く、すなわち、村に存在してはいけなかった。この考え方をそのまま村に適用すると、最後に村が全滅するのは、「かくまう」という存在意義つまり、労働や性への「対価」を無くした村にとって、あたりまえの顛末ということになる。

さらに、資本主義の特徴として、力を持つものが有利な立場を築けるということがある。すなわち、物語大半において、村人がグレースに対して有利な立場に立っており、村に居たかったら、対価を提供することを求めることが出来たが、逆に、最後にグレースが父親と同じ権限をもつようになるや力関係が逆転し、対価を提供することの出来ない村を消滅させる。

これらは、資本主義の社会では日常的に繰り広げられている情景ではある。モノがほしければ働き、価値を提供できない会社はつぶれる。それだけのことを単に人間に置き換えているに過ぎない。

もしここに、人間の本質を見るのであれば、資本主義の社会そのものが「人間の本質」を拡張したに過ぎないということが逆説的に語れるのではなかろうか。

また、資本主義とは別に、究極に閉じた民主主義をも感じさせる。閉じた空間とは「村」であり、「ギャング」である。その組織において「正しい」とされたものは、正しいと信じられる。端のことは関係ない。そういう民主主義。

ではラースは何が言いたかったのか。
曰く、「アメリカ三部作」に、この作品は含まれるらしい、また、劇中にあった独立記念日、そして最後に流れたD・ボウイの「ヤング・アメリカン」とくれば、「アメリカ」の縮図を描いている」と考えて差し支えないだろう。
そうするとこの映画から読み取れるアメリカとは、何かをしてやる代わりに搾取し、抵抗があれば無理やり従わせる。交換の究極の形としての、仕返しが、権力あるいは民主主義によって正当化され、必要なくなれば消し去り、自分に害を及ぼさないものについては、「人道的」だといわんばかりに助ける。こういうことか。

しかし、ここで終われば駄作。
この作品が、というかラースがラース足りえるのは、この「アメリカ」を見事に観客にまで落とし込んだ点。

この映画を見終わり、5割くらいの人が無言で去っていく中、残りは口々に「最後は、すっきりして良かったね」とか、「ダンサー・イン・ザ・ダークより救いがあったね」とか言っていた。
確かに、誰しもグレースに感情移入し、最後の結末には、共感できる部分が少なからずあるわけだけど、しかし要はそれがラースのねらいで、物語の最後、月が昇る瞬間までは、「村人=傲慢≠グレース=寛容」だったものが、その瞬間等式は「村人=傲慢=グレース」に変形され、グレースに共感してしまった観客もその等式の中に取り込まれ、「村人=グレース=観衆=傲慢」という等式が最終的に完成される。

犬は、グレースの「偽善的な」やさしさのため、殺されなかったと思われるが、その犬が最後に姿をあらわすのは、犬=「人間の傲慢さの象徴」と捉え、単純な皮肉と思われがちだが、確かにその意味もあるが、私はもう一つ二つ意味があると思っている。

一つ目は、周りがこの映画のセットと同じように真っ黒の壁で覆われ、必要最低限な椅子しかない、まるでこの映画のミニマムなセットのような場所にいる、観客が等式に組み込まれたこと、すなわち映画の一部となったことを、映像として表現するためのモノだったと思う。つまり、等式に組み込まれた観客の「犬」な部分が、スクリーンに実態を表したのだ。

こう考えるとますますグレースの偽善が際立ってくる。つまり、グレースに共感し、支持していた「観客」はグレースにとって「価値」があり、残しておくことの方が好ましい。だから「観客」の象徴の「犬」は殺されなかったというわけ。

二つ目の意味は、等式に組み込まれなかった観客を対象としている。
すなわち「俺はこの結末は予想できたし、グレースが正しいことをやっているとも思ってないよ。グレースも村人もお互いに許してやればいいだけじゃん」等と、この村と「異質である」と思い込んで、「寛容」を自負する観客に対して、吠えさせるためではないか。ややこしいのだが、「寛容」を自負していたグレースがはじめて村にやってきたとき、この犬に吠えられたように、「寛容」を自負し、「犬」として映画に取り込まれることを逃れた人ですら、実はすでに、映画の冒頭のグレースと同じ立場で、この物語の中に取り込まれたことを明示するためではなかったのかということ。だから犬はスクリーンの外に向かって吠えた。
この「寛容」を自負する観客が、グレースと同様、最終的に「傲慢」に身を落とすのは、この映画を見た人であれば、言うまでも無くわかることだろう。




こうすることにより、「DogVille」はスクリーンの外にまで、その集落を広げ、ラースはその中でニタニタ笑う。
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by nothing_but_movie | 2004-06-12 01:39 | Movie(D)
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