2004年 07月 01日 ( 1 )
終わることによって引き継がれる永遠
a0008075_12154.jpgもしあの時、マルコビッチが一言でも話せば、私もこんな罪悪感にさいなまれずに済んだだろう。

母も子も、穏やかで幸せそうな表情だった。その何気ない仕草、会話に微かに感じられる程度だが、確かにそこには期待感と幸せが満ち溢れていた。
それに応えんばかりに古代の遺跡は二人を迎え、そこにいる人もまた、二人を迎え、そしてまた、二人もそれらを受容する。
それはあまりに当たり前に映ったが、それは私が今生きているからであって、それらがこの世界に現れたときは、あまりに奇妙な光景であったに違いない。

異国の地に気軽に赴き、そこに住む人と言葉を交わし、食事をし、物を買い、同じ歌を聴き、すばらしい景色をじっくり眺め、人生を楽しむ。そんなことは当たり前だと思う。
しかしそれと対比するように、母が語る歴史は、権力の争いと、悲劇に満ちていて、当たり前の幸せが、当たり前でないものだということに改めて気付かされる。

そして、オリヴェイラはその幸せを、バビロンを現出させることであまりにも美しく、幻想的に描き出す。そのあまりの美しさと自然さに、自分の耳と目を疑う。
しかしこれは紛れも無く現実である。こんなにも幸せなな時代が、かつてあったのだろうか。

私は豊かで幸せな世界に生きている。そう思った。だから思った。こんな当たり前なことを描くこれは、あまりに駄作だ。
つまり私は間違っていた。


再び私は自分の目と耳を疑う。
まさにその瞬間映画は終わりを告げ、そしてマルコビッチはその動きを止める。それはしかし、映画の終わりを告げるのものだが、思考の終わりを告げるものではない。
だから私は、マルコビッチの思考を嫌がおうにも引き継がざるをおえず、考えてしまうのだ。
その後のこと、親子のこと、そして今私が生きている、これ以上無い不幸な世界のこと。

何の意味があるのか?なぜ彼らか?互いに理解し、許容しうる能力と、力と、知識と、豊かさがありながら、それらを蔑ろに、当たり前のように争いを繰り返す今の世界は、幸せか?

もしあの時、マルコビッチが一言でも話せば、嗚咽の声ひとつでも漏らせば、もっともらしい後悔の言葉の一つでも漏らせば、私はそれに安堵し、納得し、この不幸を彼の問題だと認識することができ、こんな罪悪感にさいなまれることも無かっただろう。

彼の停止は映画の終わりを告げるのものだが、思考の終わりを告げるものではない。
では思考が停止するのはいつか。
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by nothing_but_movie | 2004-07-01 01:18 | Movie(T)