2004年 10月 03日 ( 1 )
記憶という"モノ"と感情という"機能"
土曜はこれ以上ないってくらいに晴れていたようですが、見事に朝帰りしたため、夕方に活動開始。行ってみたかった場所があったのでそこまでふらふらと行って、帰ってくるともう暗くなってました。最近めっきり日の落ちるのが早くなってきましたね。
日曜は朝から雨で、出かける気がしなかったため、家でのんびり音楽聴きながら、たまってた本をぺらぺらとめくってました。今週1週間で、本はそれほど進めませんでしたが、結構意識して音楽を聴いていたので、iTuneの一度も再生していない音楽が430曲まで減りました。先週末に966曲でしたから、530曲ざっとアルバム30数枚分くらい聴けたようです。
昔よく聞いていた曲がかかると妙に懐かしくなって、その曲を良く聴いてた頃のことを不思議なくらい良く思い出したりして、新鮮でした。というのも、基本的に私はやたらと記憶力が悪いらしく、先日地元から上京してきた友人と、もう一人の同郷の友人を加えて飲んでいたときに、高校のときの話しが出たのですが、その頃の記憶は人の名前も含め、見事に、さっぱり忘れてました。品川で飲んでいたんですが、3時頃に友人が泊まっているホテルに行くため、店を出て、その道すがら高校の修学旅行で泊まったホテルがあったんですが、それすらも覚えていませんでした。
これらのことを考えると、私の場合忘れたくないことは、同時に音楽を聞いていたほうがよさそうですね。

記憶といえば、先日見た「CODE46」では、愛が再現するためには記憶は必要ないってことが描かれていたような気がします。しかしまた、愛はその礎に記憶が必要で、もし記憶を失えばその愛は行き場を失い間違った選択するらも容認するということも描かれており、つまり最後に男が"幸せそうな"家庭に戻ったのがそれでした。本質的にこの状況は、愛が帰巣すべき記憶を保持しているにもかかわらず、現実的にはその愛が成就しようがない状況におとされた女と、同じように空虚で惨めなのは言うまでもなく明らかです。
しかし、もし私がどちらかを選べといわれたら、前者でしょう。なぜなら、今も記憶なんてほとんど持っていないわけですし、記憶なんてものは所詮現実に対する自分なりの解釈でしかないわけですから、それは極端な話、いかようにも捏造しようがあるというものであって、間違ってもそこに私の本質があるわけではないのです。あるとするならば、それに付随したであろう私の感情であり、考えであるわけで、「CODE46」で愛という感情がそうだったように、とりあえず感情は再現可能で、完全に失われないようですし、そもそも感情という機能は記憶といういわゆる"モノ"ではないので、それこそ昔行われていたように前頭葉でも切り取らなければ失われようが無いわけなので、つまり同じ状況さえ再現できれば、記憶が無くともその感情は再現されるわけです。考えに関してもさほどたいしたことを考える人間ではありませんから、消えても差し支えない。また感情と違って考えはそれほど再現性が必要なく、もし必要になったとしても根拠がある考えなら失ってもいくらでも再構築できると。そう考えれば、記憶と現実の差異に苛まれながら生きるよりはきれいさっぱり忘れて、"(何のことか忘れたけど)楽しかった(ハズ)"とか思ってたほうがいくらか精神衛生上よろしいと、そんな気がするわけです。まあその代わりというか前提条件として、その感情が何のことだか分からないという虚無感や、友人と昔話に興じてもホントにそこに自分がいたのか疑問に思ったりはするのですが、面白い話は面白いし、その話しをきっかけに思い出せるものもあるのでそれで十分かなと思うわけです。しかし究極的に危惧するべきは、昔話ができる友人そのものを忘れるということでしょう。まあ今のところはありませんが。
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by nothing_but_movie | 2004-10-03 23:54 | 雑記