2004年 11月 29日 ( 1 )
不毛な中にも得るものが
そういえば先日行った「デヴィッド・リンチ・ナイト」の開始直後にあった、ほとんどの意味の無いトークショーの中で、私にとって唯一とも言えるくらい有意義だった話は、リンチがある新興宗教にはまっているというものだ。彼の作品が持つその抽象さと独特の世界観と、それぞれの"宗教"が持つ同様に独特で抽象的な世界には確かにある意味共通する部分が多く見出せ、そのため「さもありなん」て感じでさらりと納得できる節もあるが、しかし全く同様の理由から逆の帰結も導かれる。すなわち、リンチがその自身で作り出した独特の世界を抜け出し、他者が創作した全く別の独特な世界に浸るとはとても考えにくいということだ。私がどう思おうと、その思いは全く意味を持たないもので、現実には彼は他人が想像した世界を信奉してしまっていることに変わりは無く、そのため次回作の構想等もまとまっていないのだとか。しかし私はこのことに対してある意味楽観的に捉えている。

それにしても基本的に日本人の意識のレベルでは非常に存在の薄い"宗教"といわれるものの、ひとつの存在価値として確かにあるものは、理由の存在しない事柄や事態に対して理由を与えるよう示唆するということだ。全ての事柄に対してそこには存在価値と理由と目的があると"宗教"は示唆し、人はその示唆に従い現実を直視することで、いかなる状況にあろうとも何らかの解を得ようと試みてきた。よく"宗教"と一般に"科学"と総称されるものは対立概念のように語られるが現実を直視するという点においては全く対立しないし、そもそも対立しようの無い次元のずれが"宗教"と"科学"の間にはある。すなわち"科学"は現実の"機構"を捉えるものであるが、"宗教"は現実の"意図"をその直視する対象としている。この次元のずれは既に科学の創世記の頃にあったはずだが"妄信的な宗教"はこのずれすら認めなかったため"権力"という次元において"科学"を弾圧し、不毛な対立が発生していたのは確かである。しかし近代に近づくにつれ、主に"宗教"が譲歩する形でこの対立関係は解消され、"宗教"と"科学"はその視野に入れる領域を明確に分離することで、相互の存在を確立するとともに、相互にその存在を補完しあってさえいる。つまり共生が形成されている。
日本においては共生というにはあまりにも"宗教"が萎縮している感もあるが、これは日本が採用した"宗教"と、それに対する当時の権力階級の付加的な解釈と、その権力階級の淘汰が関連していると考えている。が、どのような理由にしろ、私がこれ以上日本の"宗教"について語ったところで目覚しい発見があるとは思えないのでこの話題はここで終える。

映画は"意図"を描く作品と"機構"を描く作品と"その他"に分類できる。"その他"にはいずれも描かないものと、どちらも描くものが含まれている。ここで問題なのは彼の作品がどれに属するかである。基本的に彼の作品は"機構"を描いている。"なぜそうあるのか"よりも"なぜそうなるのか"について重きを置いている。すなわち彼にとって"映画"は"科学"である。したがって彼は"宗教"に埋没することは無く補完され、その領域を拡張しつつあるのではないか。すなわち彼の作品にさらに別の視野が加わる事で、その作品の世界はさらに広がりを持つのではないか。しかしもし彼が"妄信的な宗教"に捕らわれてしまったのであれば話は別である。彼の作風が"機構"から"意図"に重きを置いた全く別のものに遷移する様子を見ることになる。


要はこれだけの御託を並べておいて、私が言いたいのは彼の作風が今後どのように変わるか興味があるということだけだ。
全く不毛な"トークショー"にも匹敵する"これ"からひとつだけ得るものがあるとすれば、意味の無い文言をダラダラと連ねるのは、話の対象の事を全く理解していないとわかることくらいだ。
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by nothing_but_movie | 2004-11-29 22:01 | 雑記