2004年 12月 13日 ( 1 )
想定外の存在
2004/11/20 (ユーロスペース)



「変身」


監督:ワレーリイ・フォーキン
原作:フランツ・カフカ
脚本:ワレーリイ・フォーキン 、イワーン・ボボーフ
出演:エヴゲーニイ・ミローノフ、イーゴリ・クワシャ


少し前に「変身」を読んでみたのですが、これからあのような"映像"が出来上がるのは至極納得出来るものがあるのですが、しかしやはりあれは別物である、あるいはその一部のみをうまく転回した作品だという思いに至りました。

要は彼を"虫の姿をした人間"と描くか、"人間の姿をした虫"として描くかの差だと思うのですが、つまり"文章の方"では彼の人間的な思考やらが垣間見れる記述があり、人間としての存在を認めざるをおえず、したがって彼とその周囲の人にある隔絶は埋めようがあるがしかし、現実的には埋めがたいものであるように見えるのに対して、"映像の方"では彼は"人間の姿をした虫"としてしか描かれておらず、それと周囲にある隔絶は埋める必要もなければ、埋めれるはずも無いものに映ってしまっていると。つまり"映像の方"は怪獣映画と一緒になってしまっているのですよ。
しかし完全なコミュニケーションの断絶を描こうとしたら、あのように誰もが拒絶したくなるような演技もありかとは思うのですが、やはりあれでは単に"虫"であって、そこに我々観衆はコミュニケーションの余地を感じず、怪獣退治よろしく、拒絶で当たり前ということになるのです。"文章の方"ではこの拒絶をかわすべく、彼の一人称での記述や、家族への愛情、あるいは家族からの愛情、彼の回想などがちりばめており、あくまで彼が人間であるということを最後まで描いているのです。つまり"虫"の姿をした人間として彼は最後まで描かれているわけです。そうだからこそ、"文章の方"にはさまざまな示唆があるのであって、怪獣退治に成り下がっていないのだと、繰り返しですがそんな感じが。

結局あの"映像の方"は映像としての"虫"の表現には成功しているものの、肝心の彼の人間の部分が描かれないがため、作品としての焦点がずれてしまったわけです。つまり既にこの時点で同一の作品とはあまりいえるものではなくなっているのです。

しかし、もし"現実"としてこの"虫"への変身という自体を捉えるなら、焦点云々よりも、このような"虫"も十分想定に入れられるべきではあるのかもしれません。
そういう点まで考慮されてあのつくりにいたったのであれば納得もいくのですが、しかしどうにもあの作品からそのような部分はあまり見られないというかなんというか。これはあの"虫"の演技がそう思わせているのだと思うのですが、そうだとすると逆説的にあの"虫"の演技は私の想定はるかに超えたところで成功していたと認めなくてはいけないのです。つまり、受け入れる理由の全く見当たらない、拒絶すべきものを見せ、その反応を描いたのがこの作品であり、"文章の方"は見事にその反応が作品外に漏れ出無いよう描いていたのですが、"映画の方"はスクリーンの外にまであえてそれをひろげて、現実としての"変身"に対する反応を観客に起こさせたということなのかもしれません。
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by nothing_but_movie | 2004-12-13 23:59 | Movie(M)