2005年 09月 21日 ( 3 )
リビングデッドに花束を
a0008075_22511434.jpg2005/8/27 新宿東亜興行チェーン




「Land of the Dead」(「ランド・オブ・ザ・デッド」)
(2005年アメリカ/カナダ/フランス)


監督/脚本:ジョージ・A・ロメロ
出演:サイモン・ベイカー、デニス・ホッパー、アーシア・アルジェント、ロバート・ジョイ、ジョン・レグイザモ





ゾンビを人類生存のために只排除するべき存在として映画に定着させたのも彼であるならば、その存在意義をさらに高めたのも彼であったと。この映画はその点において、他のゾンビ映画と一線を隔しているのですが、しかしながらなぜ今になって彼等の産みの親であるロメロがそのような選択に至ったのでしょうか。ゾンビに"生の否定"と同時に"生への執着"という特質を与え、完全に人間と対立する存在として彼等を創ったロメロのこの心変わりは、往年のファンには違和感を覚えざるをえない点であり、その点について否定する気は全くありませんが、しかし思えば、生の執着こそ人の特質であり、その意味では元々ゾンビと人間は非常に近い存在であると言っても過言ではなく、だからこそ、その特性を生かした作品を創る必要があったのではないでしょうか。

ゾンビは通常、結果はどうであれ有無も言わさず排除される存在であり、且つそれが唯一の存在理由であり、またゾンビ映画の唯一のストーリーだったハズです。しかし、この作品は冒頭で、この基本であり唯一の選択肢を捨ててしまうという、極めて冒険的な展開を見せます。ではその古典的定石の代わりにこの作品は何を描いたのか。結論から言うと、二十重に張られたヒエラルキーの上層への反感という縦糸のもと、ニューヨークを思わせる、3辺を水域に囲まれた人類最後の都市を舞台にバトルロイヤルを展開し、そしてそこにテロや、差別、貧富の差、権力の腐敗、絶対的な身分等など、およそ思いつきそうな社会風刺を取り入れたと。まぁそんな感じで、ゾンビ映画にして社会派な仕上がりを実現したわけです。グロさも抑え気味で、結果的にそれなりに一般ウケする作品に仕上がっています。

しかし此処で終われば凡作。只ゾンビが真面目にゾンビらしく振舞うだけの映画など今更、求めている人がいるはずも無く、そんなことはロメロであれば十分知っているはずです。従ってロメロは何かを仕掛けているはずで、私はそれは"ゾンビ≠人間"という式の転換、つまり"ゾンビ=人間"を成立させることにあったのではないかと思っています。


今回の作品では彼等は人間の社会と断絶せず、そのヒエラルキーの最下層に位置し、常にささやかな生活を脅かされる存在として描かれました。ヒエラルキーの上層には平凡な人間が平凡に"エサ"として存在し、その上にはその"エサ"を喰らう権力を持った人間が、そして平凡な人間と、権力を持った人間の生活を支えるために、傭兵が存在します。傭兵は生活を保障されておらず、ヒエラルキーのなかではゾンビに一番近いところに位置しており、その中には当然、与えられた任務の重要性と危険性に比例しない待遇から、権力に対する反感が生まれてくるのですが、それはゾンビが持つ、ゾンビの存在を全否定し、生の権利を振りかざす人間への反感と、ベクトルが一致するのです。さらに、今回はゾンビには知性が与えられたのですが、実際彼等がやっていることは知性が無いときとさほど変わらず、取り立てて役に立っていないと言えばそれまでですが、敢えて役に立っている点をあげるとすれば、それは人間を襲うという行為に明確な動機と意思を感じさせたこと。それだけではありますが、しかしその明確な動機と意思を感じさせるということが、今作において非常に重要な、"ゾンビへの共感"をつくるための素地になっているのです。

ヒエラルキーの上層に対する反感は、スクリーンの外にも存在するのは言うまでもなく、その構造をデフォルメしてスクリーン内部に表現すれば、観客が下層にいる傭兵に共感するのは至極あたりまえの話です。そしてそれはそのまま、意思と動機を感じさせ、同じベクトルの感情を持ち、人間を思わせるゾンビへと転嫁することが出来るのです。そのため、観客は反人間であるはずのゾンビに知らないうちに共感させられるのです。この作品において、"ゾンビへの共感"は前述のように非常に重要な意味を持っており、この作品の根幹を支えるものです。そのためロメロは非常に慎重に、"ゾンビへの共感"を生み出すための構造を作り出します。


タイトル「Land of the dead」の"Land"は何処を指すか。もちろん社会風刺を十分すぎるほど取り入れているこの作品の舞台が、この世界そのものであることに疑う余地はありません。ではそこをうごめく生ける屍とは何のことか。もちろん現実にゾンビなどはいないのですから、この地を埋め尽くしている"人間"以外にありえません。このことは、生きる目的を感じさせず、日々黙々と喰らい、増殖を続け、数あるいはその力によって、弱者あるいは少数からの搾取を続ける"人間"が、数十年前にロメロが描いてきたゾンビ像と見事に重なることを考えれば妥当な帰結だと思います。つまり、今の"人間"はゾンビと同じようなことをやっていると言う点で、ゾンビと本質的にはさほど変わらないのです。さらに、今作でゾンビが人間寄りに進歩したことによって"ゾンビ=人間"という等式は限りなく成立に近づきます。このような状態では、単にゾンビを排除しただけでは「Land of the dead」の世界は終わりを告げません。これを変えるため、つまり本質的な生きる屍を排除し、この死の世界を終わらせるためには、ゾンビと同じ様に腐敗しきった"人間"を変えるしか選択肢がありません。そのためロメロは、"人間"の醜さを描き出し理解させ、変化へのきっかけを与えようと考えたのではないでしょうか。

以上のように考えたとき、今回唐突に与えられたゾンビの知性の意味と、それと同時に、最後に打ち上げられた花火の意味が導き出せます。あの花火は、例えば安直にエンディングをなんとなく派手にしたいから上げられたものでは、当然ありません。ゾンビにはあまりにも不釣合いでありながら、作品の冒頭から強調されるあれは何か。恐らくこの作品を創る際にロメロが意識したのは、彼がゾンビを生みだすおよそ10年前に、無知な存在に知性を与え、その視座から世間を捉えせることで、人間の本当の姿を浮き彫りにした、ダニエルキイスの作品ではないでしょうか。だとしたら知性を与えられた彼等はアルジャーノン。最後に打ち上げられた花火は彼らに捧げられた花束と言うことになります。
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by nothing_but_movie | 2005-09-21 23:04 | Movie(L)
非情の中に幸せを感じて
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2005/08/20 シャンテ・シネ


「5X2」(Five times two)
(「ふたりの5つの分かれ路」)
(2004年フランス)


監督:フランソワ・オゾン
脚本:フランソワ・オゾン、エマニュエル・ベルンエイム
出演:ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ、ステファン・フレイス、ジェラルディン・ペラス、フランソワーズ・ファビアン、アントワーヌ・シャピー



この映画で最も印象的なのはやはり序盤。弁護士が出てくるシーンではなく、2人だけのシーン。つまりホテルの部屋でのシークエンス。法的手続きを終えた二人は離婚した夫婦には似つかわしくない、ホテルの一室を訪れる。そこで2人は恋人達がするように、SEXをはじめるが上手くいかない。レイプにすら見える。傍目には駄目押しにすら見えてしまうこのホテルの部屋での出来事の後、部屋を出て行こうとする女に男が「もう一度やり直せないか」と言う。無謀にも程があるようにも感じるがしかし、恋愛は感情だけの産物で、そこには本質的にルールが無い事を考えると、この一連の出来事は男の最後の望みをかけたものであったことが伺える。

人は恋愛という感情の産物に対して、感情とは対極に位置する法律というルールを持ち込んだ。これによって恋愛はルールによって、終わらせることが出来るようになったかに見えるが、やはりそんなことはなくて、恋愛は感情だけで成立している。例え法律的に離婚しても、ホテルの部屋で上手くいくような2人はその後も上手くいくのだろうし、此処で上手くいかないのであれば、それは完全な終わり以外のなにものでもない。男はこの法律という表面的なルールに隠れているかもしれない、最後の感情を確かめようとしたのではないか。しかしもちろんそんなものは無かったわけで、逆にこの行為は駄目押しとも取れるような惨憺な結果を生むだけっだったりするのですが。


現在から未来の結末はどうやっても知りようがありませんが、現在に対する過去の遠因は探れる、否、探ってしまうのが人の常。"現在"の顛末を知った観客はどうしてもその原因を過去へ求めてしまうのですが、オゾンが用意した映像が果たしてこの"現在"へ直接通じる原因だったかというとそれは明確には語られず、専ら男の視点から語られるこの"過去"の物語は、あるいはホテルに一人残された男の思考のほんの一部を描いただけという可能性も安易に捨てられないとも思えたり、つまりは男が現在の遠因を過去に求め、さらにそこから観客が遠因を推測するという、二重の妄想がそこにあるだけで、じつは彼女が考えていたことはもっと別のところにあった可能性も捨てきれないのでは。

思い起されるエピソードは冷静に考えればいずれも、そこまで深刻な話でも無いような気がしますが、あのような"現在"を見せられてからではどう見ても離婚の遠因に見えてしまったりしてしまいます。それは、一番不幸な現在から遠いはずの最後の出会いのシークエンスですら例外ではなくて、二人が海に向かって一緒に歩みだして直ぐに、日は山の陰へと隠れる。そんなことにまで、あまりに残酷というか冷徹な比喩を見いだしてしまったり。

否、しかし喧嘩で済みそうな話や、日が沈むというあたりまえの現実を映したシークエンスを残酷と呼ぶのだとすれば、全てから同じような比喩がいくつでも見つかると言うもの。しかし仮にそうだとしてもそんな残酷な現実に生きているわりには意外と人は幸せな時間を多く持っているのかも知れない。そんなことを時間だけでなく物語りそのものをひっくり返すのが好きなオゾンは言いたかったのかもしれない。
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by nothing_but_movie | 2005-09-21 00:40 | Movie(数)
どういうわけかは知りませんが、
そういうわけで、3連休を映画とDVDに費やし、本日から再び3日間仕事をし、何事も無く平和であれば、また3連休がやってくると、これほど気を抜ける1週間てのも1年の中ではあまり無いものですからのんびりする感じで。

そういうわけで、

「Nothing」
「シンデレラマン」
「チャーリーとチョコレート工場」
「シュガー」
「ハードコア・デイズ」

の5本を鑑賞。ナタリはキューブの頃に戻ったうえで、少し丸くなった感じ、「シンデレラマン」は悪く言えば言葉たらず、よく言えば抑え気味で背景を読ませる感じですが、その背景も浅く、表面的な優等生の印象。「シュガー」はまぁあれです。見た後警察に切符を切られたので、心象が悪く。「ハードコア・デイズ」は単純ですが時計を使った心象表現が印象的。とは言っても「ハードコア・・・」よりは「シュガー」の方が全体的に良い仕上がり。そういうわけで、デップとティム・バートンの独壇場の今週末。変人コンビはハズレることを知りません。と言うか、毎回遊び心に富んだ作品をティム・バートンは作りますが、今回はその遊び方が今までと少し違うよう。これほど自分の作品が好きな人だとは思っていませんでした。ジョニー・デップも、最近出た「ネバー・ランド」という最悪の作品のときと比べるのが馬鹿なくらい持ち味が出ていて、非常にはまり役だったのでは。
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by nothing_but_movie | 2005-09-21 00:26 | 雑記