カテゴリ:Movie(C)( 4 )
律儀で在りながら変則
a0008075_13152025.jpg2005/5/5銀座シネパトス


「Cabin Fever」(「キャビン・フィーバー」)
(2003米)


監督:イーライ・ロス
脚本:イーライ・ロス、ランディ・パールスタイン
出演:ライダー・ストロング、ジョーダン・ラッド、ジェームズ・デベロ、セリナ・ヴィンセント、ジョーイ・カーン



まぁやはりホラー映画は笑えるのが一番てことで久しぶりのホラーヒット作。まぁこの作品をホラーと呼ぶかどうかは怪しく、スプラッターにもスリラーにも見えないことも無いのですが、一番落ち着きがいいのはやはりホラーでしょう。最近は必要以上に"生っぽい"というか、"湿っぽい"キャラクターがもてはやされ、和製ホラーブームといわれて久しいですが、私としてはそれらに"気持ち悪さ"は感じても、作品自体は非常にお粗末なものが多いという印象を持っており、自称ホラーファンのくせにどうにも乗り切れていなかったのが正直なところ。そんな折にこの作品が出てきたわけで、これには非常に救われた思いがしました。


何が面白いと聞かれてもあれなのですが、ホラーとしては特に"恐怖感"をあおるような描写は無く、最近の"和製"の方が怖いという向きもあるのでしょうけれども、私に言わせればあれはやはり"生ごみ"的な、すなわち腐ったものを見たら生理的に気持ち悪くなるのと同じで、そういう意味では現代のホラーといわれる所謂"和製"はある意味健康的で分かりやすく、怖いもの見たさ、所謂好奇心の延長に位置づけられる"楽しさ"しか提供していません。言い換えるならテーマパークの"お化け屋敷"、あるいは"見世物小屋"のそれ、"犬猫の死体"と同列に位置づけられます。では逆に不健康なホラーとはいかなるものかといえば、私としてはやはり80年代頃の、アメリカのホラーだろうと思っているのです。そこには差別、隔離、不可避、不条理といった人間の根本に潜む恐怖を描いている作品が多く在り、さらに"情"がありません。しかしこの"情"が無いところが"恐怖"を乾燥したものにかえ、それがゆえに滑稽に見えて笑えてしまい、まさに"映画"として楽しめるのです。"恐怖"を描きながら"楽しい"。このような感覚は一般人なら普通は持たないはずでつまり不健康なのです。しかし"エンターテイメント"はそこにこそ潜んでおり、そしてそれがホラーを"映画"として認識する瞬間なのです。

しかしこの"滑稽"と"恐怖"の微妙なラインを行くのは非常に難しいわけで、一歩間違えば"コメディー"になる可能性を常に含んでいます。残念なことにこの微妙なバランス感覚を持った作品は昨今では非常に稀になり、折につれ触れていたように往年の人気ホラーシリーズは軒並み"コメディー"に転向する有様。そこへいくとこの作品は非常にバランスが良く見ていて気持ちが良かったなと。

さらに注目すべきはそのストーリー。これまでありそうでなかった所謂お約束を踏襲しつつもそれを少しずらしてある変則ストーリーは、それほど凄いことでは無い気もするのですが、しかし膠着、縮小傾向にあったホラー映画にとっては非常に注目に値します。森、小屋、カップル、雨、怪しい店主、警官等など、ホラーでは腐るほど出てくる、そして実際に腐る描写も多々ある常套小道具達の用いられ方が、この作品ではお約束から微妙にずれています。例えば、非常に有名な例で言えばホラーで最初に死ぬのは最初にSEXを始めたカップルと相場が決まっているのですが、これは違います。そういう微妙なずらしがそこここにあり、そしてそれもなかなか微妙なずらし方で、日本的にいえば"温故知新"を感じます。また、ホラーにしては律儀に思えるほど、各登場人物たちの最期にそれぞれ理由があり、それなりの哲学を感じました。


総じて非常に面白い。ピーター・ジャクソンの「素晴らしい!最高!ホラーファンは長年こんな映画を待っていた!」にも其の通りと少し気に食わない面もありますが頷けてしまいます。少し気に食わないといっても作品への評にではなく、「指輪・・・」を撮りだして以降のジャクソン氏に同意するのが気に食わないと言うことなので誤解無きよう。また、タランティーノの「イーライはスプラッター映画の未来そのものだ!」にも至極納得。独特のセンスを感じさせる彼の次回作は非常に楽しみです。
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by nothing_but_movie | 2005-05-26 13:21 | Movie(C)
1億総ヒーロー時代
2005/3/6新宿東亜興行チェーン



「Celluler」(「セルラー」)


(2004米)
監督:デヴィッド・R・エリス
脚本:クリス・モーガン
出演:キム・ベイシンガー 、クリス・エヴァンス 、ウィリアム・H・メイシー 、ジェイソン・ステイサム 、ノア・エメリッヒ


よくも悪くもB級映画なわけですが、と自分で書き出してみてなんとも意味のない感想だなと一瞬あきれてしまったのですが、まぁしかし、便利なものを手放すことが難しいのは古今東西、老若男女を問わないということでそのまま使わせてもらうことにします。B級映画。
以前にもこんな話があったようななかったような、そんな感じですが、話のテンポが良く、見ていて飽きない感じでした。唯一気になったのは主演の女優があまりにもわざとらしくというか真剣に騒ぐので、それがどうにも気になってしまったりもしたのですが、まぁそれは人それぞれでしょうけど私の理由は後述しておきます。

一昔前の所謂"刑事もの"のドラマで誘拐事件が起きた場合、犯人からの電話は十中八九"固定"電話からかけられ、それを当然のように"固定"電話で受けていたわけで、それは当然"有線"なものですから、"生命線"とはまさにその語意を得た表現ではあったのですが、"電話"と書けば携帯、つまり"無線"のものをあらわすようになってしまった今となっては"生命線"といってもなんとなくイメージが違っていて、頼りないイメージが。このことは電話が持つ電気やガスなどと同等のインフラ的な側面よりも、より娯楽性の強い玩具的な側面が強く発達してきている今の電話のイメージと上手く重なっていたりするわけです。その玩具を手がかりに、これまた頼りない若者が、ドタバタと犯人を追い詰めていく様は頼りないながらも、それがゆえに現実的な凄惨さは微塵も感じさせず、予定調和的とも言える展開と結末が見え隠れし、すなわちまさに映画的な娯楽話を展開してくれるわけです。

まぁそんな感じの映画だったものですからそれと酷くズレていた前述の主演女優の演技がやたらと場違いに見えてしまい、気になったのでしょう。

"電話"はかつてスーパーマンが着替えるためだけに使われていた存在ですが、今やそれこそがヒーローの主要な武器となってしまったと。今の時代ヒーローになるためには他の星から地球に来たり、遺伝子操作された蜘蛛にかまれたりせずとも、ちょっと奮発して最新のCellulerの携帯を持つだけでヒーローになれるということでしょうか。いやはや技術の進歩はヒーローと一般人との距離を、お金で買えるものにしてしまったのですね。
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by nothing_but_movie | 2005-04-19 10:30 | Movie(C)
デレクに惑う
2004/10/09 UPLINK X
2004/10/16



「カラヴァッジオ」(1986)
「ウォー・レクイエム」(1989)
「ザ・ガーデン」(1990)
「ラスト・オブ・イングランド」(1987)

監督: デレク・ジャーマン


ここ2週間で、「カラヴァッジオ」、「ウォー・レクイエム」、「ザ・ガーデン」、「ラスト・オブ・イングランド」とデレク・ジャーマンの作品を4本見た。正直これほど消化不良を起こす作品は今まで無かった。私の知見が少ないといえばそれまでで、また感性の問題といってしまえばこれもまたそうなのだろけれども、それにしても消化不良著しかった。
しかし、この消化不良は作品そのものが消化できないというよりは、むしろデレク本人を理解できなかったというほうがより正しい。
作品を4本も見ればそれなりに人となりが見えてくるような、少なくともその人が根底に持つ考えが見える、そんな気がしているのだが、デレクに関して言えばほとんど見えることは無かった。それがそのまま私の中で"作品を昇華"させることを難しくしたのかもしれない。しかし、昇華してみればこれほど印象的な作品はそう無い。そう結論せざるを得なくなった。

何より、全ての映像に無駄が無く、それでいて解釈の幅は広い。そう感じる。4本を総評するという暴挙が許されるとするなら、自分やデレクの投影により紡ぎだされる物語。そんな印象だ。つまり、見た人の解釈により、その物語は如何様にも解釈を異にすることができる。この自由さが魅力であり、つまりデレクの良さではないかと思う。

この手法は映画よりも絵画に近い。そんな気がする。
一般に、絵画等の芸術は言語よりも解釈の幅を広げつつもより直接的に考えや感情を伝えるものだと考えることができると思う。言語はその発生過程からも分かるように必ず社会的な理解が付随し、そこから独立して解釈することは不可能だ。しかしこの特性から言語は1:多の伝達が可能だ。
絵画などの芸術はそうではなく、極端な例を言えば、言葉も知らない子供でも、そこに何らかの着想を得ることができる。その着想は当然一様でなく、また普遍ではない。これが絵画の本質だと思う。そしてこの特性がゆえに芸術は1:1の伝達しかありえない。
よく絵画の解釈を垂れる輩がいるが、それはそれでよいが、しかしそれは一面でしかなく、絵画という言語よりも高度で多面的で豊かな存在を、言語という画一的で貧弱なものに置き換え、そのすばらしさを減じている、あるいは一部のみを伝えているに過ぎないと思う。絵画や芸術は本質的にはそこに言語が無くとも成立しうるのだ。

デレクの作品はほとんど台詞が無い。
これはより豊かな映像に全てを語らせたためだと思うが、だからこそデレクの作品には幅があり、豊かでありながら、それを観た人はそれぞれ徐々に何らかの帰結を得ることができる。
そして1:1の伝達しかなしえない。つまり絵画に近い。
さらにいうなら、既にさまざまな色がデレクによって塗られているにもかかわらず、それを塗り替えることも許容されているような、そんな感じすら与えてくれる。

念のため誤解が無いようにいっておくが、芸術も人が作るものなら、間違いなくそこに意図がある。これを読み違えることの責任がどちらにあるかは検討の余地が大いにあるのため、差し控えるとして、芸術に許容された自由とはその意図の元にある。しかし一般にその意図は凡人にはあまりに裾野が広く、それでいて、確かな方向性を提示してくれる。
私が自由と呼ぶのはその意図の上、その方向性に習った、あるいは派生しうるもののことであり、読み取りうる作者の意図を無視したものではない。

私が消化不良を起こしたのは、デレクの意図が想像以上に広く、示唆に富み、それでいて鋭いがためだった。


それにしても、客が少なすぎである。4本中2本は私しかそこにいなかった。
しかし、そこに誰かがいたからといって私と同じ印象をこれらの作品に持つとは限らないわけだから、本質的には1人で見ようと、2人以上で見ようとなんら変わりが無いのか。



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by nothing_but_movie | 2004-10-18 23:42 | Movie(C)
だいぶ空いてしまいましたが、いいかげんレビューします。
starwars3
Casshern
この映画の主張。いいたいことはわかるけど、でもなんか掘り下げ足りなくない?そんなことは誰でも考えている。解答がないからみんな悩むんだけど、この映画以上にはみんな考えていると思うんだよね。なんとも薄っぺらい主張。

しかしながら、映像は美しい。緑と白のコントラストと赤と黒のコントラスト。これら二つのコントラストが作り出す映画全体のコントラスト。綺麗だった。
でもなんか全体的に安っぽいCGが目立ったかな。なんだかな。

あと"人"がかっこ悪い。なんかみんなダサい。必死に"演じて"ます。みたいな感じがした。これに関していえば、邦画を見るといつもこんな感じを受けてしまうんだけど、それには多分日本の映画界の構造的な問題があると思ってます。この問題について論じるのはまたの機会にしておきますが・・・。

そしてストーリーも結構お粗末。

何がやりたかったのかな・・・。自己満?


と、やっぱり酷評になってしまったのだけれども、じゃーなんで見に行ったかというと、弟が製作スタッフに入っていたため。
最後のスタッフロールに結構大きめに名前が出てて感動。
実はただその確認の為に、最初から不毛と確信していた2時間を耐え忍んだわけです。
ホントにそこだけは感動した。やりたいことできてるんだなーって感じで。

にしても、結論としては
弟が参加する次回作まで、邦画は見ないって事でしょう。
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by nothing_but_movie | 2004-06-04 21:10 | Movie(C)