カテゴリ:Movie(L)( 3 )
リビングデッドに花束を
a0008075_22511434.jpg2005/8/27 新宿東亜興行チェーン




「Land of the Dead」(「ランド・オブ・ザ・デッド」)
(2005年アメリカ/カナダ/フランス)


監督/脚本:ジョージ・A・ロメロ
出演:サイモン・ベイカー、デニス・ホッパー、アーシア・アルジェント、ロバート・ジョイ、ジョン・レグイザモ





ゾンビを人類生存のために只排除するべき存在として映画に定着させたのも彼であるならば、その存在意義をさらに高めたのも彼であったと。この映画はその点において、他のゾンビ映画と一線を隔しているのですが、しかしながらなぜ今になって彼等の産みの親であるロメロがそのような選択に至ったのでしょうか。ゾンビに"生の否定"と同時に"生への執着"という特質を与え、完全に人間と対立する存在として彼等を創ったロメロのこの心変わりは、往年のファンには違和感を覚えざるをえない点であり、その点について否定する気は全くありませんが、しかし思えば、生の執着こそ人の特質であり、その意味では元々ゾンビと人間は非常に近い存在であると言っても過言ではなく、だからこそ、その特性を生かした作品を創る必要があったのではないでしょうか。

ゾンビは通常、結果はどうであれ有無も言わさず排除される存在であり、且つそれが唯一の存在理由であり、またゾンビ映画の唯一のストーリーだったハズです。しかし、この作品は冒頭で、この基本であり唯一の選択肢を捨ててしまうという、極めて冒険的な展開を見せます。ではその古典的定石の代わりにこの作品は何を描いたのか。結論から言うと、二十重に張られたヒエラルキーの上層への反感という縦糸のもと、ニューヨークを思わせる、3辺を水域に囲まれた人類最後の都市を舞台にバトルロイヤルを展開し、そしてそこにテロや、差別、貧富の差、権力の腐敗、絶対的な身分等など、およそ思いつきそうな社会風刺を取り入れたと。まぁそんな感じで、ゾンビ映画にして社会派な仕上がりを実現したわけです。グロさも抑え気味で、結果的にそれなりに一般ウケする作品に仕上がっています。

しかし此処で終われば凡作。只ゾンビが真面目にゾンビらしく振舞うだけの映画など今更、求めている人がいるはずも無く、そんなことはロメロであれば十分知っているはずです。従ってロメロは何かを仕掛けているはずで、私はそれは"ゾンビ≠人間"という式の転換、つまり"ゾンビ=人間"を成立させることにあったのではないかと思っています。


今回の作品では彼等は人間の社会と断絶せず、そのヒエラルキーの最下層に位置し、常にささやかな生活を脅かされる存在として描かれました。ヒエラルキーの上層には平凡な人間が平凡に"エサ"として存在し、その上にはその"エサ"を喰らう権力を持った人間が、そして平凡な人間と、権力を持った人間の生活を支えるために、傭兵が存在します。傭兵は生活を保障されておらず、ヒエラルキーのなかではゾンビに一番近いところに位置しており、その中には当然、与えられた任務の重要性と危険性に比例しない待遇から、権力に対する反感が生まれてくるのですが、それはゾンビが持つ、ゾンビの存在を全否定し、生の権利を振りかざす人間への反感と、ベクトルが一致するのです。さらに、今回はゾンビには知性が与えられたのですが、実際彼等がやっていることは知性が無いときとさほど変わらず、取り立てて役に立っていないと言えばそれまでですが、敢えて役に立っている点をあげるとすれば、それは人間を襲うという行為に明確な動機と意思を感じさせたこと。それだけではありますが、しかしその明確な動機と意思を感じさせるということが、今作において非常に重要な、"ゾンビへの共感"をつくるための素地になっているのです。

ヒエラルキーの上層に対する反感は、スクリーンの外にも存在するのは言うまでもなく、その構造をデフォルメしてスクリーン内部に表現すれば、観客が下層にいる傭兵に共感するのは至極あたりまえの話です。そしてそれはそのまま、意思と動機を感じさせ、同じベクトルの感情を持ち、人間を思わせるゾンビへと転嫁することが出来るのです。そのため、観客は反人間であるはずのゾンビに知らないうちに共感させられるのです。この作品において、"ゾンビへの共感"は前述のように非常に重要な意味を持っており、この作品の根幹を支えるものです。そのためロメロは非常に慎重に、"ゾンビへの共感"を生み出すための構造を作り出します。


タイトル「Land of the dead」の"Land"は何処を指すか。もちろん社会風刺を十分すぎるほど取り入れているこの作品の舞台が、この世界そのものであることに疑う余地はありません。ではそこをうごめく生ける屍とは何のことか。もちろん現実にゾンビなどはいないのですから、この地を埋め尽くしている"人間"以外にありえません。このことは、生きる目的を感じさせず、日々黙々と喰らい、増殖を続け、数あるいはその力によって、弱者あるいは少数からの搾取を続ける"人間"が、数十年前にロメロが描いてきたゾンビ像と見事に重なることを考えれば妥当な帰結だと思います。つまり、今の"人間"はゾンビと同じようなことをやっていると言う点で、ゾンビと本質的にはさほど変わらないのです。さらに、今作でゾンビが人間寄りに進歩したことによって"ゾンビ=人間"という等式は限りなく成立に近づきます。このような状態では、単にゾンビを排除しただけでは「Land of the dead」の世界は終わりを告げません。これを変えるため、つまり本質的な生きる屍を排除し、この死の世界を終わらせるためには、ゾンビと同じ様に腐敗しきった"人間"を変えるしか選択肢がありません。そのためロメロは、"人間"の醜さを描き出し理解させ、変化へのきっかけを与えようと考えたのではないでしょうか。

以上のように考えたとき、今回唐突に与えられたゾンビの知性の意味と、それと同時に、最後に打ち上げられた花火の意味が導き出せます。あの花火は、例えば安直にエンディングをなんとなく派手にしたいから上げられたものでは、当然ありません。ゾンビにはあまりにも不釣合いでありながら、作品の冒頭から強調されるあれは何か。恐らくこの作品を創る際にロメロが意識したのは、彼がゾンビを生みだすおよそ10年前に、無知な存在に知性を与え、その視座から世間を捉えせることで、人間の本当の姿を浮き彫りにした、ダニエルキイスの作品ではないでしょうか。だとしたら知性を与えられた彼等はアルジャーノン。最後に打ち上げられた花火は彼らに捧げられた花束と言うことになります。
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by nothing_but_movie | 2005-09-21 23:04 | Movie(L)
これは時代劇あるいはゾンビ映画だ
a0008075_030816.jpg2005/05/29シブヤ・シネマ・ソサエティ


「Le Convoyeur」(「ブルー・レクイエム」)
(2004フランス)


監督:ニコラ・ブークリエフ
脚本:ニコラ・ブークリエフ、エリック・ベナール
出演:アルベール・デュポンテル、ジャン・デュジャルダン、フランソワ・ベルレアン、クロード・ペロン、ジュリアン・ボワッスリエ


些細なことではありましたがいくつか作品中で始まりが描かれていないのに終わりだけ描かれているような、あるいはその逆に描かれていたごくありふれた日常的な出来事があり、なんとも気持ちの悪い描写だなとおもっていたら、壁の写真であったり、弾丸への細工だったりと、つまり彼の復讐にかける意気込みのようなものは、どこで何の役に立ったかもよくわからないにもかかわらずしっかり描かれていて、これはつまり彼の心理あるいは視野、つまり復讐のことしか考えておらず他のものは目に入らない状況を映画的に表現したものなのでしょう。

来るべき日に向けて障害と傷跡の残る体の鍛錬を欠かさず、日々寡黙に吹き溜まりのような職場に赴きその本心をひた隠し、がむしゃらに手がかりを追い、自ら死地に赴く彼の背中に"侍を見た"と言いたいところなのですが、なんといっても元はただのサラリーマン。復讐のための技術等もちろん無く、使い慣れない銃を手にする様はさながら、時代劇でありがちな親の敵に無謀にも向かっていく子供のそれ。劇中でこのちぐはぐな姿は恐らくは外装と中身がつりあっていないあの"車"に例えられているのです。

まぁしかし、クライマックスで見せる彼の執念は、時代劇の侍のそれにも見え無くもないのですが、弾をバンバンと喰らいながらも、ムクリと立ち上がり敵に向かっていく様はまさにゾンビか死霊のそれ。意外と小綺麗に死ぬ侍にはあまり見えず、間違っても普通のサラリーマンでは無いなぁと淡々と思うわけです。そしてこのゾンビあるいは死霊もまた、今ではほとんど見られない、つまりは普通なら廃車になっているであろうあの"車"に例えられているのです。


ありがちな設定、ありがちな展開、ありがちな終わりで、目新しいものは何も無いのですが、気持ちの悪い映画を見てしまったなという思いになるのがこの作品。駄作と切り捨てるにはあまりに興味深い印象を残すこの作品を、良く分からないからといって"フィルムノワール"なんて言葉でごまかしてほしくないですね。これは間違っても"フィルムノワール"などではなく、"侍のゾンビ"あるいは"ゾンビの侍"つまりは少し前の日本侍ブームと最近のホラーブームを足し、さらにそこにフランス映画のあの落ち着きと寡黙な雰囲気を併せたフランス映画の冒険的ともいえる新境地なのです。この視点を持ってみればいかにこの作品がそれらの作品に共通するプロットを持っているか、いかに冒険的であるかが見えるはずです。この作品を久しくネタ切れのハリウッドがほしがっているということも、またあの遊びの効いたエンドクレジットも"フィルムノワール"だからでは説明になりませんがこれほどの冒険をし、新しい方向性を示した映画だとみれば非常に分かりやすい話なのですよ。


そして彼は彼の象徴であるあの"車"で仇討ちの報告をしに行く、否、自分の墓場に戻っていく、否、息子のもとへと戻って行くのです。めでたしめでたし。いや面白い映画を撮ったものです。
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by nothing_but_movie | 2005-06-03 00:40 | Movie(L)
名は体を
a0008075_11241871.jpg2005/5/28 VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズ

「Ladder 49」(「炎のメモリアル」)
(2004米)


監督:ジェイ・ラッセル
脚本:ルイス・コリック
出演:ホアキン・フェニックス、ジョン・トラヴォルタ、ジャシンダ・バレット、ロバート・パトリック、モリス・チェスナット


迫力のあるシーンはそれなりに当然あるのですが、構成が単調で終始淡々としていてどうにも精神的に疲れる感じでした。さらに、その構成のお陰ですぐに最後を予想できてしまったのが疲れをさらに助長した原因かとも。しかし緩急のメリハリはしっかりしていたので変な中だるみ感はなく、それなりに見れる作品ではあったなと。ある意味映画の教科書的な作品とでも言うと聞こえは良いでしょうか。かなりストレートな作品で、役者もそれなりですので夏休みとかGWあたりに公開すればもう少しは興行収入が上がっただろうと個人的には思いますが。

唯のチーム名が「炎のメモリアル」に変えられるあたり、なんとも日本人受けしそうな湿った感じが個人的にはあれだなとは思っていたのですが、彼等の勇気と犠牲の上に社会が保たれていることや、ある意味家族ぐるみの献身といったものが印象的だったこと、そして何より映画の構成自体を鑑みるに、当たらずも遠からず、それなりに焦点が絞られた良いネーミングではあったなと。
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by nothing_but_movie | 2005-05-30 11:34 | Movie(L)