カテゴリ:Movie(M)( 5 )
良心の姿
2005/2/27 シネクイント



「Machinist, The」(「マシニスト」)

(2004 スペイン/アメリカ)
監督:ブラッド・アンダーソン
脚本:スコット・コーサー
出演:クリスチャン・ベイル 、ジェニファー・ジェイソン・リー 、アイタナ・サンチェス=ギヨン 、ジョン・シャリアン 、マイケル・アイアンサイド


呵責とはすなわち苦しめることであり、それが良心からくるものであっても、その逆からくるものであっても、苦しさは変わらないわけで、そういう意味では一般のイメージからかけ離れるあのような姿が、所謂"良心"の化身であっても全く納得のいく話しだなと、というよりもむしろあのように表現されてみれば、確かにあれこそが呵責という苦役を与えるときの"良心"としてはしっくりくるなと妙に納得してしまいました。

この監督の前作「Session 9」は極めて個人的な感想では宝の持ち腐れ的なネタの使い方というか、もったいない舞台設定をしたなと思ったり、そもそも話が"あれ"だなと思たりしたのですが、今回もまた、不眠症でなくても結果として苦しんでいれば何でも良かったのではないかとか、タイトルの理由がどうにもぴんとこなかったりで、相変わらずネタの使い方が下手だなと少し感じてしまいましたが、まぁ、全体としては調和しており前作より小手先感が無く、良い作品に仕上がっているのは間違いないところでしょう。

オチや謎解き的な要素は比較的簡単に分かってしまうので、サスペンスとしての面白さはそれほどではないかと思いますが、「罪と罰」を上手く現代的に表現しており、また画のつくりや音楽、ストーリー、テンポも良く作られており、完成度の高い作品だったのではないかなと満足しております。
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by nothing_but_movie | 2005-03-09 23:59 | Movie(M)
想定外の存在
2004/11/20 (ユーロスペース)



「変身」


監督:ワレーリイ・フォーキン
原作:フランツ・カフカ
脚本:ワレーリイ・フォーキン 、イワーン・ボボーフ
出演:エヴゲーニイ・ミローノフ、イーゴリ・クワシャ


少し前に「変身」を読んでみたのですが、これからあのような"映像"が出来上がるのは至極納得出来るものがあるのですが、しかしやはりあれは別物である、あるいはその一部のみをうまく転回した作品だという思いに至りました。

要は彼を"虫の姿をした人間"と描くか、"人間の姿をした虫"として描くかの差だと思うのですが、つまり"文章の方"では彼の人間的な思考やらが垣間見れる記述があり、人間としての存在を認めざるをおえず、したがって彼とその周囲の人にある隔絶は埋めようがあるがしかし、現実的には埋めがたいものであるように見えるのに対して、"映像の方"では彼は"人間の姿をした虫"としてしか描かれておらず、それと周囲にある隔絶は埋める必要もなければ、埋めれるはずも無いものに映ってしまっていると。つまり"映像の方"は怪獣映画と一緒になってしまっているのですよ。
しかし完全なコミュニケーションの断絶を描こうとしたら、あのように誰もが拒絶したくなるような演技もありかとは思うのですが、やはりあれでは単に"虫"であって、そこに我々観衆はコミュニケーションの余地を感じず、怪獣退治よろしく、拒絶で当たり前ということになるのです。"文章の方"ではこの拒絶をかわすべく、彼の一人称での記述や、家族への愛情、あるいは家族からの愛情、彼の回想などがちりばめており、あくまで彼が人間であるということを最後まで描いているのです。つまり"虫"の姿をした人間として彼は最後まで描かれているわけです。そうだからこそ、"文章の方"にはさまざまな示唆があるのであって、怪獣退治に成り下がっていないのだと、繰り返しですがそんな感じが。

結局あの"映像の方"は映像としての"虫"の表現には成功しているものの、肝心の彼の人間の部分が描かれないがため、作品としての焦点がずれてしまったわけです。つまり既にこの時点で同一の作品とはあまりいえるものではなくなっているのです。

しかし、もし"現実"としてこの"虫"への変身という自体を捉えるなら、焦点云々よりも、このような"虫"も十分想定に入れられるべきではあるのかもしれません。
そういう点まで考慮されてあのつくりにいたったのであれば納得もいくのですが、しかしどうにもあの作品からそのような部分はあまり見られないというかなんというか。これはあの"虫"の演技がそう思わせているのだと思うのですが、そうだとすると逆説的にあの"虫"の演技は私の想定はるかに超えたところで成功していたと認めなくてはいけないのです。つまり、受け入れる理由の全く見当たらない、拒絶すべきものを見せ、その反応を描いたのがこの作品であり、"文章の方"は見事にその反応が作品外に漏れ出無いよう描いていたのですが、"映画の方"はスクリーンの外にまであえてそれをひろげて、現実としての"変身"に対する反応を観客に起こさせたということなのかもしれません。
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by nothing_but_movie | 2004-12-13 23:59 | Movie(M)
虚構の中で静かに2人で
2004/11/27 銀座テアトルシネマ



「Mulholland Drive」
(2001年米)

監督/脚本:デヴィッド・リンチ
音楽:アンジェロ・バダラメンティ
出演:ナオミ・ワッツ 、ローラ・エレナ・ハリング


"難解"だとは聞いていましたが、此処までとは。しかし逆に言えば"難解"なのであって、けして"不可解"なつくりではないと。また製作開始当初はTVシリーズを予定していたということからも、観る人からして選んでしまう「イレイザー・ヘッド」等に代表される彼の他の作品郡に比べれば、作品自体のコンセプトもより一般受けしやすいつくりであることは明白で、そういう意味でも"不可解"ではありえないと、そう思います。


現実部分と虚構部分を明示せずに作品を構成するのがリンチの常套手段なのでそれに倣うなら前半が基本的に虚構、後半が現実と考えられる。

後半部分から読み取れる現実では、ダイアン(=虚構:ベティー)は田舎から出てきた脇役女優、カミーラ(=虚構:リタ)の愛人だったが、カミーラを映画監督と他の女に寝取られる。嫉妬に駆られるたダイアンは殺人を依頼。しかし実際に殺人が成功したことを知り、罪悪感と失意から自殺にいたる。ということ。

前半部分は虚構でダイアンとカミーラ(=虚構:リタ)の立場が社会的な立場から性生活に至るまでほぼ全てが逆転し、ダイアンが優位になっていることからこれはダイアンが罪悪感とから逃れるために自分に都合がいいように作り出したものと考えるのが一番しっくり来る。
虚構は死体を見つけたところから急展開を見せる。恐らくこの死体はダイアンのものなのであるが、見た目はカミーラのそれだ。つまりこの死体は2人の死を同時に象徴している。
死体を見つけた夜2人のベットシーンが始めて描かれるが、これは死によって2人が結ばれることを象徴していると解釈できる。その後のクラブのシーンで2人は失恋の歌を聴き、2人で泣く。このシーンは体だけではなく心の一致を暗示しているもので、この心の一致を持って虚構はその役目を終える。これは現実には得られなかったダイアンがカミーラとの心の一致、すなわち真に結ばれることを求めていたからであり、これこそが虚構が発生した原因であるからだ。
しかしこれらはダイアンが現実の失意の中で勝手に思い描いたもので所詮虚構だ。要は無理心中と一緒である。死んで得られるものなど無い。クラブのシーンでも男が言う。此処で起きることの全ては虚構だと。
しかし「お静かに」なのである。そんなくだらないことを言う必要はない。2人が一緒になれればそれでいい。

つまりこれは基本的に失恋の話が基調となっている。そしてその失恋のためにダイアンがとった殺人という行動と、それに伴う罪悪感と脅迫観念。さらに自分が夢見たがかなわなかった「ハリウッド」での成功を絡めた虚構世界が展開される。観ようによってはこれは「ハリウッド」の縮図にもなりえる。このような「愛」と「裏切」、「夢」と「失意」、「勝者」と「敗者」、これらにからむ「嫉妬」がハリウッドに当たり前のように渦巻いている。そこまで展開すると少しやりすぎの感もあるが、TVシリーズでの長期的な展開を考えればあながち行き過ぎということも無いだろう。

それにしてもリンチが人間心理を此処まで直接的に描くのも珍しいのではないかと、そんな気も。
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by nothing_but_movie | 2004-11-28 21:48 | Movie(M)
ゲバラの亡霊に
2004/11/06 恵比寿ガーデンシネマ



「Motorcycle Diaries, The」
(2003年英/米)

監督:ウォルター・サレス
製作総指揮:ロバート・レッドフォード
原作:エルネスト・チェ・ゲバラ 、アルベルト・グラナード
脚本:ホセ・リベーラ
出演:ガエル・ガルシア・ベルナル 、ロドリゴ・デ・ラ・セルナ


この作品の最初と最後には以下のようなメッセージが出る。

「これは偉業の物語ではない。
 人生のある地点で、同じ方向を目指した2人の友情の物語だ」


映画のジャンルで言うなら所謂「ロードムービー」に分類される。ロードムービーの一般的な主な構成要素には「旅の風景/情景」「人間性の成長」「新しい発見」があると考えている。まず映像については、全般的にきれいでしたし、目を引くように美しいシーンは少なくありませんでした。ここら辺はさすがという感じですが絶賛するほどのものではない。
次に「人間性の成長」。医学生のボンボンが無鉄砲な友人と、無計画な貧乏旅行に出て、貧しい生活を強いられている人々やハンセン病で隔離されている人々の現実を目の当たりにし、共鳴し、自分がやるべきことを「発見」していく過程が描かれている。自分が生きてきた世界以外を「発見」して、それをきっかけに精神的な「成長」が描かれ、最後にその成長と将来の偉業を象徴する河を泳意で渡るシーンで旅は締めくくられる。このシーンは、うまく使えば自分の危険を顧みず、誰もやったことのない偉業を行った彼を、わかりやすく象徴的に表すための効果的なシーンかも知れませんが、これをまともに意図したように見せるには旅の過程で見せた彼の未成熟な面があまりにも邪魔をし、この行動の主な動機として描かれたリストラ夫婦と病人集落はあまりに浅く軽薄だ。つまりこのシーンは突飛過ぎる。
総じて、ロードムービーとしては中途半端感と完成度の低さが全体に漂う仕上がりとなっているというしかない。ではこんな映画がなぜ評価されているのか。


もし主人公が"彼"だとしたらどうか。

"彼"は裕福な家の育ちで何不自由なく育ちましたが、ある日旅に出ました。その旅で"彼"は貧困や病に喘ぐ人々の悲しい姿を見て、何とか救いたいと考えました。"彼"はこれをきっかけに政治活動をはじめ、努力や運などにも恵まれて若き日に志した地位に上り詰める事ができました。
そんなある日"彼"は若い頃に見たのと同じように貧困に喘ぐ人々を見つけました。"彼"は政治を変えるべきだと考えました。そこでその政府の転覆を試み、様々な手段を圧倒的な支持と力のもとに講じ、見事それを達成、悪政から人々を解放しました。

勘の良い方はわかったと思いますが、置き換えた"彼"とは先日再選を果たした人です。"彼"がこのような旅をしたかどうかは知りませんし、恐らくしていないと思いますが、仮に同じ旅をして同じ人々を見て同じ行動をしたとして、それを映画にしても誰も感動なんかしないと思うんですよ。つまり、今の"彼"の評価や評判がそのまま映画にも反映されるはずです。(※1)特に河を泳いで渡るシーンなんかは「捏造と欺瞞に満ちている」とムーアあたりが騒ぐはずです。

つまり、ロードムービーとして中途半端なこの映画がまともに成立し、評価されているのは、彼が主人公だからだ。彼が偉業を成し遂げ、評価されているという背景があるからこそ映画も評価されているのだ。つまり、この評価は映画のそれではなく、彼のそれだ。偉業のきっかけとなったと思ってみるからこそ良い旅に見え、その映画だから良く思え、突飛過ぎる演出も容認してしうのだ。


「これは偉業の物語ではない。
 人生のある地点で、同じ方向を目指した2人の友情の物語だ」

本当に偉業ではないと思って河を渡るシーンが見れましたか。2人が目指した方向性が医者や政治家ではなくなぜ革命家なのか映画から読み取れましたか。2人から映画になるほどの友情が見えましたか。彼らが目にした風景や情景が彼の顔以上に印象に残っていますか。あなたは写真展で見たり読んだりした彼の姿についてではなく、また雑誌で読んだ彼の偉業についてでも、テレビやネットで見た彼の特集でもなく、純粋にこの作品について何か語れますか。ゲバラの亡霊に惑わされていませんか。

映画自体を評価せずにその題材の人物や、時代が良いという理由で、実際は駄作や凡作が良いと評価されることは別にこの作品に限ったことではない。(「華氏911」もある意味こういうタイプですね。「華氏911」の内容覚えてますか。その当時は騒いだかも知れませんが、そろそろ内容を忘れてたり、鼻で笑ってたりしてませんか。)そしてそういう映画の売り方もありだとも思いますが、私は映画館には"映画"を見に行き、"映画"で驚き、発見し、感動し、楽しみたい。そしてそういう映画こそが"良い映画"と評価されてほしいと考えているし、評価したい。




※1:もし主人公を"彼"に置き換えそれでも感動すると言うなら、"彼"が主人公である意味が全く無いといえる。作品としての面白さは証明されるのかもしれないが、主人公を描ききっているとは言いにくく、もったいない失敗作であることに代わりない。これは主人公が彼でも同じ事が言える。
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by nothing_but_movie | 2004-11-26 23:59 | Movie(M)
モンスターの根底に
2004/10/17 シネマライズ


「モンスター」
(2003米/独)
監督:パティ・ジェンキンス
脚本:パティ・ジェンキンス
出演:シャーリーズ・セロン 、クリスティナ・リッチ 、ブルース・ダーン 、スコット・ウィルソン 、プルイット・テイラー・ヴィンス


気づけば早くも23時に時計が差し掛かりつつ。
今日は台風のおかげでいつもよりもだいぶ早く帰宅。PCの前にもいつもより早く来たはずなのですが、結局書き出すのはいつもとさして変わらない時間に。
原因ははっきりしていて、今日は「モンスター」について書こうと思っていたのですが、どう無理にひねり出そうとしても脳ミソが拒絶。まったく筆が進まず、気晴らしというか現実逃避というかそんな感じで、ヒト様の文章などをWebでちらちら見ていたら今の時間になったというわけです。要はたいして書くことも無い映画だったとそう言ってしまえれば簡単なのですが、一言でそういえるほど単純なものでは無くて、全く困った作品ですねと。

それにしても、あの作品は見た後感動するのが"正常"な反応なのか、それとも憤るのが"正常"なのか、いや"正常"な反応が何であるかは重要ではないので放っておくとして、より重要なのはアレを"撮った側"は何を意図して作っているのかということですよ。

もし"撮った側"が意図していたモノが"彼女"を"観た側"に理解させ、一連の事件の"動機"を理解させることだとするなら、作品中では最初の数分の、"彼女"の子供の頃の心理と体験が語られるシーンが恐らく最も重要になるのではないかと。しかし、このシーンは"数分"という単位でしかなく、この作品の大半は別の部分に焦点が当たってしまっているわけです。そして思うに、その"大半"の部分で捉えられる比較的日常的な行動ですら、この数分で"描かれきれなかった心理"こそが所謂"動機"であり、これを理解せずには不自然極まりなく映るのではと、そう思うわけです。つまり、この"動機"になりうる部分を"数分"で済ませることは、"彼女"を理解させるという目的にはそぐわず、もし"撮った側"が多少なりとも賢ければこんな構造にはしないだろうなと。つまり"撮った側"の意図は別にあると、そう言わざるを得ないわけです。
では他の意図を探ってみると"社会への批判"なのか"もう一方の彼女への批判"なのか、"2人の愛について"なのか、それとも他に何かあったのか、それは判然としない印象を受けます。そもそもこの状況に陥った過程を"数分"で済ませておきながら、これらを語ろうとするにはあまりに底の浅い構え方だと、そんな気がするわけですよ。比較的重点を置いていたように思える"2人の愛"ですら、"彼女"が自分の投影を"もう一方の彼女"に見たから発生したわけで、要は"彼女"が"もう一方の彼女"程だった頃に体験し、構築したであろう経験と思考が"動機"となり発生しているわけですから、その部分を等閑にしてはダメなんですよ、そもそもが。
で、結局私の中で残った"撮った側"の意図というのは、敢えてさまざまな要因を振りまき中途半端に見せることによって、"彼女"を理解不能な"モンスター"に仕立て上げてしまっている(ように見える)厭らしいモノ。そしてそんなものが根底にあるからこそ、語るべきものがほとんど語られず、ほとんど意味の無いシーンがタラタラと続けられ、それなりにインパクトのあるシーンだけが強調されるという、最も安っぽく観えてしまうモノに仕上がったとそんな感じですかね。まさに、デレクの対極といった感じですね。

と、無理に捻っていたときには出なかったものが意外とすらすらと出てきました。
そうそう、ついでに言うなら音楽もなんとなくミスマッチな感じでしたね。これも安っぽさを強調していたようにも・・・。もうやめときます。
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by nothing_but_movie | 2004-10-20 23:56 | Movie(M)