カテゴリ:Movie(S)( 9 )
否、骸骨は関係ありません
2005/10/15 新宿TOKYU MILANOビル


「Skeleton Key ,the」


恐らく最も一般ウケすると思われるこの作品。定番な展開で、オチも真相も中盤までで大体分かってしまいますが、作品全体は非常に丁寧なつくりで自然とその世界観に入り込めます。と言うよりは、そういった世界観に入るまでが重要な作品。

残念ながら劇場公開は無く、ストレートにVideo、DVDリリースになってしまうようですが、時間があれば、さらっと見るには良いでしょう。

気になるのがタイトル。もう少し捻らないと作品自体に深みが無いのでネタバレな印象。これのおかげで真相がある程度推測できてしまうのが残念。そしてさらに気になったのが上映直前の煽り。あまりにも大げさなおかげで、かまえてしまったのがなんとも残念。気を抜いてみていればもう少し後半は翻弄されていたかもと思ったり。

そういえば隣に座っていた方が終演後一言「骸骨出てた?」
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by nothing_but_movie | 2005-10-18 23:57 | Movie(S)
エンターテイメントを撮りたければ映画を。ほしければ同じく映画を。
a0008075_16283217.jpg2004/12/17 VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズ



「Shattered Glass」
(「ニュースの天才」)
(2003米)



監督・脚本:ビリー・レイ
出演:ヘイデン・クリステンセン 、ピーター・サースガード 、クロエ・セヴィニー 、スティーヴ・ザーン 、ハンク・アザリア


金曜日に急遽呼ばれた"季節行事"に申し訳程度に顔を出し、ぎりぎりで駆けつけたのがこの作品。結構前から見ようとは思っていたのですが、諸事情など重なり結局公開がそろそろ終わりそうな先週末にやっと足を運ぶことができました。

この話をストレートに見てしまえば、描かれているものは規模は違えど、日本でも毎日のように起こっている問題なわけですから、いまさら感も間々あるわけです。が、しかし改めて描かれてみるとやはり興味深いというかなんというか、所詮人間は理性や論理ではなく、慣習や、よりひらたい言葉で誤解を恐れずに書くなら思い込みの中に生きているのだなと思いました。

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てな文章を少し書き、今の今まで放っておいた、否、正確には忘れていたのですが、最近あった似非国営放送の件の事件を見てふと思い出したしだい。


人のことは知ったことではない。家はウチ。他所はヨソ。そういう言い回しがあるにもかかわらず、なぜか今の世の中はヒトサマの情報に溢れておりますが、そもそも報道とは何のためにあるのかと言うことを考えなくてはいけないと思うのです。実際に一般の人間が世間の情報をどこまで必要としているか。私が思うに、ほとんどの人は現在垂れ流されているほとんどの情報を必要としていないはず。「否、大きな電車事故のようなものは全国民に知らせ、原因の究明、再発防止策の策定を衆目監視のもとで行わせるべきダ!」とおっしゃる方もいるかもしれませんが、そんなものは大変不謹慎で失礼ですが詭弁です。ほとんどの場合事実の究明とその後の糾弾に終始し、それが一巡した頃には次のニュースが我々を魅了しており、その後の展開は極限られた方しか関わらない場合がほとんどのはずです。これがいいことか悪いことかは私は判断しませんが、現実はそうなっているのです。

つまり今日の報道はその本来の役目よりも唯単に、平穏無事、波風無く、起伏に乏しく、淡々と円環のように続く下々の日常に、稀に起きる非日常的な情報を提供することで仮想の起伏を作っているに過ぎず、つまりは映画と同様にエンターテイメントとして存在しているのです。つまり人が根源的に求める快楽を供給しているのが報道であり、そう考えれば過剰な情報量も納得できます。この考え方に倣うならば、関係各位にとっては迷惑極まりなく、重大な事なのは重々承知しておりますが、それ以外の人にとっては今回の事件も、この作品で描かれた事も何も驚くことでも重大でもなく、むしろ正常な流れであり、意識していないにせよ求めているものそのものだなと思えます。

人間の世界認識は現在はテレビやWebや新聞に大部分が支えられ、それには常に発信する側の思い込みや意図が含まれているものであり、それをある程度容認せざるを得ないのが現実。その容認できる範囲を何処までにするかについては検討しなくてはいけませんが、一方で事実か否かを判断する材料はほとんどの場合情報を受ける側には無いため、事実として知らされればそう認識してしまうわけです。件の番組に「感動した」との感想を寄せた人はまさにその思い込みや意図が作り出した虚構の世界を現実として受取ってしまった人なのです。同様なことは大小問わなければ現実にいくらでも起こりえるわけで、事実毎日起きており、すなわち誤解を恐れずにひらたく書くなら、私達は思い込みの中に生きているのです。

報道は事実の伝達という主に報道側が作ったエゴと、潜在的な民衆の"エンターテイメント"の要求に板ばさみになり病んでいる。病的な彼の描写は今の報道そのものなのです。
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by nothing_but_movie | 2005-05-27 16:41 | Movie(S)
実態のない死というものを
2005/4/24シネマ メディアージュ



「Sea Inside, the」(「海を飛ぶ夢」)
(2004スペイン)


監督:アレハンドロ・アメナーバル
出演:ハビエル・バルデム、べレン・ルエダ、ロラ・ドゥエニャス、マベル・リベラ、セルソ・ブガーリョ、クララ・セグラ、タマル・ノバス、フランシス・ガリード



思いの外というか、ほとんど何も情報を入れないで見に行ったのですが、序盤で予想した展開は全く裏切られ、比較的掘下げの浅い作品かなとも思ったのですが、否、正しくは"掘下げ"が浅いわけではなく、"視点"の問題だったようです。要はこの映画のコンセプト自体が私が考えていたものとは根本的にずれていたと、ただそれだけのことで作品としては非常に印象的で明快なものを持つすばらしい作品でした。"死ぬ"とか"生きる"とか、"自殺"とか"他殺"とか"尊厳死"とか、そのような曖昧な概念を扱う場合には、そのもの自体を直接扱うのではなくて、その周辺を示すうことでそのテーマを少しずつ浮き彫りにするという手法もまた、このようにありなのではないのかと。


それにしても"尊厳"とは改めて考えてみると、実態の伴わない言葉だなと。その実態を伴わない言葉を頭に冠する尊厳死とはつまるところ"死"でしかないのです。死は尊厳とは異なり、ある程度の実態を伴う言葉ですが、前述のように"曖昧"な考え方です。一般に"死"とは定められた生体反応がなくなったと判断された時点で下される"決定"でしかなく、細胞生物学的に見た場合などはまだまだ"生きている"場合が多いわけで、そういう意味では人が一般的に下す"死"という判断は人としての死でしかないわけです。

そこで人としての"死"とは何かと考えてみるのですが、私はやはり脳死だと思っていますし、これは今となっては大部分の日本人からの合意を得ていることだと思っています。
当たり前ですが脳死の判定は脳死している人間が「死んでます」と自己申告するわけではなく、脳が生きている人間が極力主観を排除した形で行っているわけですが、この制度が成立しているのはこれまた当たり前なのですが脳が死んでいると判断される人間が、その時点での意思を表明しない、あるいはできないからなのです。これはすなわち、"意思の表明"こそが人間としての"生"であり、それが無いことは人間としての"死"であると定義しているだけであって、本当に人間として死んでいるかどうか、つまり"意思"が本当にないかどうかなんてのはそれこそ脳死になってみなくては分からないことなのです。

意思が無(あるいは表明できない)ければ、文字通り有無も言わせず死なせてしまうくせに、その人間の意思が"死にたい"と表明しているにも関わらず死なさないのはなぜかという問題が所謂"尊厳死"に纏わる問題だと私は認識しており、先ほど"実体が無い"といった"尊厳"とはすなわち"意思"のことだと私は思っています。つまり尊厳の用法としてありがちな"尊厳を踏みにじる"とはすなわち、"意思を踏みにじる"ことであり"尊厳(を保った)死"とは"意思(を持った)死"のことだと認識しています。
このことを合わせて考えるなら、この作品は見事にその"意思を保つ"という行為を、また、周囲の人間がその意思を踏みにじらないつまり、理解し尊重するという行為に至るまでを見事に描いていたなと。つまり実態としては単なる死である"尊厳死"というもの自体にフォーカスするのではなく、その周囲、所謂"成立条件"を描くことによってそのものが浮き彫りにすることに成功しているのです。

だからこそこのような曖昧で、重たく、今もって結論の出ないテーマをやわらかく、しかしはっきりとした印象を持ち、それでいて押し付けがましくなく描けたのではないかと。

さらにより傾倒的に考えるなら、この作品の随所には、人間の思想や他者への思い、そして存在し得ないものへの思い等、所謂人間らしさとか言われるものがちりばめられている。これらを人間の成立条件と考えるならこの作品は人という曖昧でとらえどころの無いものを見事に立体的に浮き彫りにした作品であるとも言えそうだ。人は"誕生"という始点から"死"という終点を結ぶ直線上を2次元的に歩む存在では無く、時間や空間、もちろん肉体にも囚われることなく存在している。海を飛ぶ夢のあのシーンはそのように見える。
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by nothing_but_movie | 2005-05-06 17:46 | Movie(S)
神秘主義の並行世界
2005/02/19新宿東亜興行チェーン


「Suspect Zero」(「サスペクト・ゼロ」)
(2004年 米)

監督:E・エリアス・マーヒッジ
脚本:ザック・ペン 、ビリー・レイ
出演:アーロン・エッカート 、ベン・キングズレー 、キャリー=アン・モス 、ハリー・レニックス 、ケヴィン・チャンバーリン


帰り際にふと目に付いたのが「セブンを・・・」の宣伝文句。そんな宣伝文句を謳っていたのですね。知りませんでした。しかしながらこの安易な宣伝文句がいかにしてつけられたかということは推して知るべしというか、どこからどう考えてもなんとも安易というほかないなと。案の定適当に調べてみた限りでは日本以外ではそれほど「セブン」を意識した宣伝文句はつけられていないようです。それほど、「セブン」という作品が日本で持つ意味合いが強いのか、日本の映画界の人材が"あれ"なのか、それとも日本人全てが"あれ"なのか、正確な理由は知りませんし、知ろうとも思っていませんがとにかくこの売り文句はそろそろ止めてもいいんじゃないでしょうか。と、まぁどうでもいいことはおいておくとして、これが面白いところは、なんと言ってもその捜査手法であるなと、これが唯の"プロファイリング" であればいまさら誰も見向きもせず、いいところ去年の「テイキング・ライブス」あたりのできだったのだろうなと思います。しかし、これを少しばかり胡散臭いものへと変えただけで、どこかで見たことのあるシーンや、展開、つまりは他の作品の焼き直しなのですが、それがあたかも神秘主義が科学を凌駕している並行世界で展開されているかのような、不思議な雰囲気をかもし出しているなと、変なところに感心してしまいました。個人的には作品全体の雰囲気は、「セブン」なんかより、神秘主義大好きなシャマランの「アンブレイカブル」あたりに似ていたのではないかなと、そんな気がしました。
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by nothing_but_movie | 2005-03-08 22:52 | Movie(S)
やりすぎにやりすぎを捧げ
a0008075_1922340.jpg2005/1/2 シネマライズ



「Super Size Me」(「スーパーサイズ・ミー」)
(2004米)

監督/脚本/出演:モーガン・スパーロック



それにしてもよくやったなぁと言うのが正直なところ、先日も書きましたがなんにしても適当さというのが大切なわけで、何でも過ぎれば毒になるわけです。従ってこのような胡散臭いものも徹底的にやりすぎれば毒となって毒を制するといったところでしょうか。別にこの映画を批判したり、マックを擁護しているつもりではないのですが、まぁ極論もここに極まれりと言ったところでしょうか。


劇中確か週1回以上利用するのが"ヘビーユーザ"、週3回以上が"何たら"ユーザと言う扱いになっているとか何とか言うくだりがあったかと思いますが、これに倣えば、1日3食、1ヶ月間通い詰めた彼は何になるのでしょうか。単純に考えれば、"ヘビー"の21倍、"何たら"の7倍は利用しているわけで、これはいくらなんでもアレなわけです。

そういえば私が卒業研究を行っていた時同じくして、アガリクス茸が持つ物質の抗癌作用を研究していた同期がいたように思いますが、彼の成果によるとアガリクス茸の有効成分は生のアガリクス茸から取ろうと思ったら、体重の数十倍(数百だったかしらん)を1日に食べなければ効果が無いとかそんなことを申していたような記憶があります。実験自体はもちろんマウスを用いていましたが、この結果をそのまま人間に適用するなら、一般家庭で料理に使う程度では全く埒があかない量なわけです。にもかかわらずスーパーなどでは抗癌作用を謳っていた気がしますから全く何のことやらといった感じです。つまり、これと同じようなことをこの作品もやっているわけで、これが示す有害性に信憑性というものがあるのかどうかはかなり疑わしいわけです。仮に有害性が認められたとしても、社会一般的に容認されうる範囲内かもしれないという検証は間違いなく欠けており、要はこの話は話半分程度、もしかしたら21分の1程度で聞いた方が良いかもしれないのです。

しかし、其れを差し引いても余りあるのがこの作品のテンポの良さであり、状況設定であるなと感心していたところ、小耳に挟んだのですがこの監督はどうやら専らCMを撮っているのだとか。なるほど、手法はほぼ同じではあるけれども、全く間逆の効果を引き出しています。裁判所や医師などの威光を借りたり、"仕様前→使用後"を見せることはよく見かけますし、比較的短めにシーンを分ける手法などは飽きられたら終わりの長時間のTVショッピングの構成に酷似していて、まさに良く深夜にやっているそれのようです。

まぁそんなこんなで、全体に妙な"胡散臭さ"を漂わせているこの作品は、つまりマックを単純に叩きたいわけでは無くて、現代に構造的に存在する問題への警笛なわけです。しかし話のバカらしさのおかげで肩の力を抜いて非常に気楽に観れてしまい、やっていることも単純ですから言いたいことが入って来やすく、残りやすいわけです。また、"胡散臭い"とは言っても、そもそも映画などというものは全て演技という、厳密に言えば"嘘"や"虚飾"という"胡散"そのもので構成されているわけですから、そう考えれば21倍だろうが、他の食品と比較していなかろうが、主題を伝えるための手段と考えれば映画としては一向にかまわないわけで、やりたいことをやりきり、其れによって伝えたいことを伝えきったこの作品は成功なのです。

マックに限らず全ての商品に存在する企業責任と自己責任の境目、企業が持つべきモラル、個人が持つべき危機感と自己管理。これらへ自然と目を向けさせてくれるこの作品は上手いなぁと素直に感心でき、そして面白いなと。あと、なんと言ってもやりすぎな商品に対して、大真面目な批判映画ではなくて、やりすぎな映画をあえてぶつけるあたりが小洒落てるなと。


どうでも良いことですが、ひげ面の医師は捕まった時の某国大統領に似ている気がするのですが、気のせいでしょうか。
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by nothing_but_movie | 2005-01-06 19:08 | Movie(S)
来年こそは
2004/10/16 新宿ミラノ座
東京ファンタスティック映画祭 20th



「ソウ」
(2004米)

監督:ジェームズ・ワン
出演:ケアリー・エルウェズ、ダニー・グローバー、モニカ・ポッター、リー・ワネル


何よりも面白かったのが上映後にあったTeach inでの質問。質問のはずが感想になってしまい、結局何が言いたいのか良く分からないものや、勝手でしかも見当違いの質問をぶつける輩がいたり、思い込みを適当に話したのか、訳すのにも苦労する言語を話す人なんかがいて中々楽しめました。いやホント"Super natural"とかね。通訳の方お疲れ様でした。
あ、鋭い意見もありましたよ。最後方の恐らく最大の見せ場であろう"あるシーン"のための、なんともこじつけてきな展開についての指摘とかは大変的を得ていたと思います。
それにしてもこの作品のワールドプレミアで、しかも今週末から公開されるバージョンではカットされているシーンも入っているという事で、ずいぶん集客に貢献したようです。確か去年のホラーの日はちらほら空席があったかと思うのですが、今年は立ち見まで出る始末。すごいもんですね。実は私はほとんどこの作品(というかファンタで公開される作品の全て)はノーチェックだったので、プレミアだとか、シーンがカットされていないとかは全く知らず、立ち見がいると気付いたときは、ファンタもずいぶんメジャーになったのかしらとか思ってしまいました。

さて、中身ですがと。
最初のバスルームの画には妙な魅力というか、なかなかハイセンスなものがあったと思うのですが、しかし全体を通してみるとやはり低予算でしかも経験不足な雰囲気がその画や、シナリオにそこはかとなく漂っていました。
それにしても、このテの作品は基本的に"ユニーク"なことが求められるように思っているのですが、つまりこれだけ限定した空間と、状況と、人物で、同じようなシチュエーションを作ってしまえば、同じような展開で、同じような結末しかありえないと。さりとてそれを避けるために、幾つかの作品の要素を混ぜたとしても所詮"2番煎じ"や「『CUBE』 meets 『Seven』」や「キューブとセブンを足して2で割ったような感じ」という評価しか与えられないと思うわけです。別にこの映画にオリジナリティーが無いといっているわけではなく、下手な映画よりもよっぽどオリジナリティーに満ちてはいたのですが、しかしそのオリジナリティーも"点"であって"線"や"面"にはなっていなかったなと、そう思うわけです。Teach inでも「影響を受けた映画は?」なんて質問があったかと思うのですが、名前が挙がった映画のほとんど全てについてオマージュとも取れるシーンがあったように思います。まぁオマージュが悪いわけではないのですが、そのオマージュとオマージュの間にちょっとしたオリジナルが紛れ込んでいて、それらの雰囲気にあまり統一性が無く、なにかちぐはぐな印象を受けてしまったと、そんな感じです。
要は何がいいたいかというと、着想の時点では中々よい始まりと終わりを思いついた様ですが、肝心のその間がダメだったと、そういうことです。
お金は次から心配しなくてよさそうですので、あとは経験を何とかすれば何とかなるんじゃないかと、次回作に期待ですね。あ、"続編"じゃ無いですよ。全く違う"次回作"です。あしからず。

そうそう、どうやらカットされるシーンてのはたいしたことも無く、別にカットしなくてもレートに響かないんじゃないかと思える些細なシーンで、もしこの"カットシーン"のために立ち見で甘んじた人がいたのだとしたら、ファンタも宣伝がうまくなったなぁと関心しきり。




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「スピーシーズ3」
(2004米)

監督:ブレッド・ターナー
出演:ロビン・ダン、サニー・メイブリー、ロバート・ネッパー、ナターシャ・ヘンストリッジ


よもや「3」まで出るとは思ってもいませんでした。相変わらずなお話しでしたね。



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「ハウス・オブ・ザ・デッド」
(2003米)

監督:ウーヴェ・ボル
脚本:
出演:ジョナサン・チェリー、タイロン・レイツォ、オナ・グローアー、クリント・ハワード、ユルゲン・プロホノフ


こういうのは好きです。最近観た「マーダー・ライド・ショー」とかはあまりにこてこてであまり好きではなかったんですが、これはテンポも比較的良く、意外と良かったです。
全くの個人的な嗜好ですが。まぁたぶん大半の人がうんこ映画に分類するとは思うのですが。





さすがに3本まとめてまともなレビューを書くのは無理がありましたね。
今年は「ヘルレイザー」が無く、個人的に大変心配していたホラーナイトでしたが、終わってみればなかなか良かったのではと。でもやはり、来年こそは「ヘルレイザー」をなんとか観たいので、関係各位の方々なんとかよろしくお願いしますネ。

今日は昨日よりは帰宅が早かったのですがなんだかなにやらすごく疲れました。眠くてしょうがないと。
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by nothing_but_movie | 2004-10-27 23:59 | Movie(S)
交差する存在
a0008075_05235.jpg2004/7/10 ヴァージンシネマズ六本木ヒルズ
邦題:「スパイダーマン2」
監督:サム・ライミ
製作総指揮・原作:スタン・リー
出演:トビー・マグワイア、キルスティン・ダンスト、アルフレッド・モリーナ



彼にとってあのコスチュームこそスパイダーマンそのものであり、だからスパイダーマンとしての人生を捨てることは、コスチュームを捨てるという行為によって、いとも簡単に達成されてしまうのである。
それは逆説的に考えるなら、あれを身に着けていない限り、彼はスパイダーマンではないということになるだろう。

しかし、当たり前だが、コスチュームを捨てたところで、あの能力が消えるわけではなく、つまり、コスチュームの存在など、彼の心理的なよりどころ以外の何物でもないということである。
このことは、あの電車を停めるシーンで体現され、立証される。

つまりこのシーンはパラダイム転換点となっているのである。彼がそれまで誰に言われること無く、自らに課していたルールが崩壊する正にその瞬間であり、彼と彼女が最終的にこの劇中で形成する関係を予言するものである。

このシーンで彼は覆面をつけていない。つまりスパイダーマンではなく、ピーターである。ところが、その体を電車の前面に固定しているのは、スパイダーマンが繰り出した糸である。
つまり、この姿はピーターがスパイダーマンの能力によって制限され、恋愛すら自由にできず苦しんでいる状態の完全なメタファーとなっているのである。

停車後、乗客によって助けられた彼は、その正体を乗客にさらす。この瞬間、ピーターとスパイダーマンはその存在が完全に融合する。
乗客がスパイダーマンの正体がピーターだと認識することにより、ピーターとスパイダーマンのベクトルは初めて接点を持ち、そして融合したのだ。
言い方を変えれば、ピーターという欠点だらけの人間が、より進化したことを意味する。

また、本質的に、彼の中でもスパイダーマンとピーターの区別がなくなる。つまり「スパイダーマンだから…」という言い訳の消滅を意味している。だからこそ、あのラストもハリウッドにありがちな、安易な安っぽいラストではなく、なるべくしてなったラストと見ることができるのではないか。

今回はどちらかというと、ピーターとしての面に焦点が当てられていた。
2つのベクトルの加算は1つのベクトルをつくるように、今回のことは当然スパイダーマンの存在にも影響を与えているはずで、それが今後どのように描かれていくのか。
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by nothing_but_movie | 2004-07-20 00:53 | Movie(S)
無目的の中の目的
a0008075_03454.jpg今週見た他の2作と、うって変わって、かるいノリの作品。
F・F・コッポラを叔父に持つ元スマッシングパンプキンズのジェイソン・シュワルツマンの雰囲気がこの作品にベストマッチしてる。
まー、でもミッキ・ロークの久々のいい演技のほうが要注目。
作品としては「トレインスポッティング」のまんまといってしまえばそれまでかもしれないけど、この作品の音楽と映像は、トレインスポッティングのそれを超えるくらいすばらしい。好きだなこういうの。とてもスタイリッシュ。

製作のクリス・ハンレイはインディペンデンス系のプロデューサーとして、かなりすごい人。この人が製作についてる映画は個人的にかなりヒットしてるものが多く、特に「アメリカン・サイコ」は常に自宅のテレビに映しておきたいくらい好きだ。

それにしてもコッポラ一族は最近活躍しまくりだ。



スタイリッシュなキャラクターと、それに劣らずスタイリッシュな映像、そしてそれらに溶け込む音楽。
見事な調和が作り出されているこの作品は、しかしその調和こそが、まわりの世界と彼らとの隔絶を際立たせる。
その中でうごめく人は、やはりというか、結果として世間に調和しておらず、ひたすら仲間内で、仲良くやろうとするのだけど、やっぱり、どっちかというとすれ違いばかりで、理解しようとしても理解できない他人ばかりで、一番近いはずの人にすら理解されず、そんな自分も理解できない、ただの居場所の無いのけ者として存在している。

そんな状態から脱しようと、色々動いてはみるけど堂々巡りでまたもとの場所に戻ってくる。誰かに助けを求めても結局無駄で、仕方ないから悪態でもついてみて、それにも飽きたらやめてしまえばいい。

ダメ人間の吹き溜まりのようなこの作品は、じゃ見る価値は無いかって言われると、そうかもしれないけど、そうじゃない。

何も目的を持たないで生きているからこそ、生きる理由を探すのに必死で、だから、いろんなものが見えるわけで、そんな彼らを通して、この世界を見ると、自分にもまだまだいろんなことができるんじゃないか、いろんなものがあるんじゃないかって気になって、だけど別に成功しなくてもいいって気にもさせてくれて、じゃ久し振りに色々もがいてみるかって気にさせてくれる。
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by nothing_but_movie | 2004-07-02 00:30 | Movie(S)
倒錯とも陶酔ともうつる真実
a0008075_233930.jpgこのような感覚に陥ったのはいつぶりだろうか。

しかしながら、途中で気がついていたのだ。
あの、あまりに対比されたシークエンスによって、自身を第3者の視点で覗くことによって、あの不釣合いな男女の根底にこめられている感情によって、一連の物語は既にその本当の姿を私の目にさらしていながら、しかし、そのあまりに倒錯的な完全なる偽りの前に、既に見出した真実すら、疑わせた。


風のある水面は光を複雑に散らすも、その全ての根底には確かに、神が創ったとしか思えないような美しく完全な理がある。だからこそ、人はそれに魅了され、時間がたつのも忘れて水面を見つめてしまう。

このスクリーンも、暗い部屋の後方より降り注ぐ人工的な光を、複雑に散らす。そしてそこには、神が創った理にも比肩するほどの、計り知れない意図が含まれている。

女性への深い理解と、洞察が、その美しいプールを中心に描かれたこれは、あまりにも美しく、その美しさはあまりにも完全である。

神はその絶対的な存在のために、姿をあらわさずとも崇められる。しかし、逆説的ながら、神の存在が絶対的であればこそ、その姿が現れた瞬間こそが、真にそれを理解し、崇めることができる唯一無二の瞬間であると思う。
そして、これもまたそうなのである。
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by nothing_but_movie | 2004-06-23 23:40 | Movie(S)