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「軽薄な存在」
a0008075_22513198.jpg2004/7/24 新宿ジョイシネマ2


「キング・アーサー」
(2004年米)

監督:アントワーン・フークア
製作:ジェリー・ブラッカイマー
脚本:デヴィッド・フランゾーニ、ジョン・リー=ハンコック
出演:クライヴ・オーウェン、スティーヴン・ディレイン




その日は気分が良かった。
だから最後に締め&オチの意味で見た。

人物が軽い。そして話しも薄い。
予想通り、文句無く…。

予告編からひしひしと感じさせていた、緊張感の無い映と、キャラクター。
そしてセンスのかけらも無い色彩と造詣。

たるみきった雰囲気がそのまま本編でも続けられ、そして予備知識が無ければ、完全に支離滅裂な話しに、そして極度に薄められた話しのどこに観客はひきつけられれば良いのか。
予想通りなのでむしろ喜ばしいが、映画としては悲しすぎる。

ブラッカイマー、いまや金集めだけが生きがいか?いや、昔からか?
そしてそれも才能か。

いやいやブラッカイマーを攻めるのは筋違いか。
アントワーン・フークア。力量不足。これに尽きる。

そして膨大な予算は、無駄に多いスタッフに消えたか。
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by nothing_but_movie | 2004-07-26 22:56 | Movie(K)
今週末レポート。
今週末は、

「ウォルター少年と、夏の日」
「丹下左膳・百万両の壺」
「キング・アーサー」

でした。
詳しくはまた後ほど。
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by nothing_but_movie | 2004-07-25 21:29 | 雑記
青のグラデーション
2004/7/17 ヴァージンシネマ六本木ヒルズ
a0008075_22442486.jpg

「ディープブルー」
(2003英・独)

監督・脚本:アラステア・フォザーギル、アンディ・バイヤット
音楽:ジョージ・フェントン
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
製作:BBCワールドワイド、グリーンライト・メディア


ひたすら海を映している。だからひたすら青い。たまに白い。まれに黒い。結論としてかなり心地よく、上映時間のせいもあってかかなり眠くなった。

映像としてはかなりきれいで、よく撮れたなーって感じのシーンが惜しみなく出てくる。作った人尊敬。
DVDとか買って家で暇なときにボーっと眺めるのには最適だ。
既にBBC Videoより発売されている、4枚組のDVD、「The Blue Planet - Seas of Life Collector's Set (Parts 1-4)」が元ネタとなっているらしいです。


それにしても、捕食者からいっせいに逃げる魚の群れが、水面から射す光に、絶えず変化するみごとな青と黒のグラデーションを描くあのシーンは、この作品屈指の名場面だろう。
まさにバックに流れるオーケストラのごとく、個々が1つの集団としての美を形成している。

しかし、その実は生死の駆け引きのまさに最中であり、そんなシーンに美しさを感じてしまうのは、人の平和ボケした感覚のなせる業か。それとも人が人たる所業か。



それにしても来る度に思うのだけど、ここは映画館としての環境は最高だけど、そこに来る人の質は他に比べて明らかに・・・で、何時もいらいらさせられる。
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by nothing_but_movie | 2004-07-22 22:58 | Movie(D)
今週末レポート
今週末は、

「ディープ・ブルー」
「ゴッドファーザー2」

でした。
詳しくはまた後ほど。


さらに、
「2001年宇宙の旅」
を久しぶりにビデオで見ました。
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by nothing_but_movie | 2004-07-20 17:50 | 雑記
交差する存在
a0008075_05235.jpg2004/7/10 ヴァージンシネマズ六本木ヒルズ
邦題:「スパイダーマン2」
監督:サム・ライミ
製作総指揮・原作:スタン・リー
出演:トビー・マグワイア、キルスティン・ダンスト、アルフレッド・モリーナ



彼にとってあのコスチュームこそスパイダーマンそのものであり、だからスパイダーマンとしての人生を捨てることは、コスチュームを捨てるという行為によって、いとも簡単に達成されてしまうのである。
それは逆説的に考えるなら、あれを身に着けていない限り、彼はスパイダーマンではないということになるだろう。

しかし、当たり前だが、コスチュームを捨てたところで、あの能力が消えるわけではなく、つまり、コスチュームの存在など、彼の心理的なよりどころ以外の何物でもないということである。
このことは、あの電車を停めるシーンで体現され、立証される。

つまりこのシーンはパラダイム転換点となっているのである。彼がそれまで誰に言われること無く、自らに課していたルールが崩壊する正にその瞬間であり、彼と彼女が最終的にこの劇中で形成する関係を予言するものである。

このシーンで彼は覆面をつけていない。つまりスパイダーマンではなく、ピーターである。ところが、その体を電車の前面に固定しているのは、スパイダーマンが繰り出した糸である。
つまり、この姿はピーターがスパイダーマンの能力によって制限され、恋愛すら自由にできず苦しんでいる状態の完全なメタファーとなっているのである。

停車後、乗客によって助けられた彼は、その正体を乗客にさらす。この瞬間、ピーターとスパイダーマンはその存在が完全に融合する。
乗客がスパイダーマンの正体がピーターだと認識することにより、ピーターとスパイダーマンのベクトルは初めて接点を持ち、そして融合したのだ。
言い方を変えれば、ピーターという欠点だらけの人間が、より進化したことを意味する。

また、本質的に、彼の中でもスパイダーマンとピーターの区別がなくなる。つまり「スパイダーマンだから…」という言い訳の消滅を意味している。だからこそ、あのラストもハリウッドにありがちな、安易な安っぽいラストではなく、なるべくしてなったラストと見ることができるのではないか。

今回はどちらかというと、ピーターとしての面に焦点が当てられていた。
2つのベクトルの加算は1つのベクトルをつくるように、今回のことは当然スパイダーマンの存在にも影響を与えているはずで、それが今後どのように描かれていくのか。
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by nothing_but_movie | 2004-07-20 00:53 | Movie(S)
今週末レポート。
今週末は、

「スパイダーマン2」
「永遠のモータウン」

でした。
詳しくはまた後ほど。
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by nothing_but_movie | 2004-07-12 00:58 | 雑記
浮き出る存在
a0008075_21229.jpg2004/7/4 新宿武蔵野館
邦題:白いカラス
原題:THE HUMAN STAIN (2003年米)
監督:ロバート・ベントン
脚本:ニコラス・メイヤー
原作:フィリップ・ロス「HUMAN STAIN」
出演:ニコール・キッドマン、アンソニー・ホプキンス、エド・ハリス、ゲイリー・シニーズ


秋までは豊かに水をたたえていた湖も、冬の今は凍りつき、真っ白に輝いている。
その上にいるエド・ハリスが白いシーツの上に浮き出た、一点の染みのように見える。

彼はベトナム戦争という冬によって、母なる水、つまり社会から拒絶された、染みである。
英雄と迎えられるべくして、愛国心からその冬に立ち向かった彼が、帰ってきたとき残っていたものは、社会との間にある厚い氷であり、心の傷である。
彼は世間との繋がりを求め、必死に氷に穴を開けるが、そこから得られるものは無い。
自分も繋がっていたい、繋がっていたことの証がほしい。それらが得られないのであれば、死にたいと彼は思っていたに違いない。

ゲイリー・シニーズがここのことを本に書いて良いかと尋ねたとき、なぜエド・ハリスは良いと応えたのか。
それは、氷の上にいつまでも一人でいる、自分の存在に気付いてほしいという、あまりにも淡い願いからなのかもしれない

結局、だからこそ彼は彼等を恨んだのだ。
人との繋がりを回復した彼等への嫉妬がそうさせたのだ。


Sexが人と人との交流を、そして人が社会を作る理由と考えれば、この映画にその場面が不要とも思えるほど出てくるのは至極当然で、なぜなら理由は様々にせよ彼等はみな一様に社会から隔絶しており、そんな彼等にとってソレは普通以上に意味のある行為であってもおかしくない。ましてや年齢により不能になったはずの彼がその手段を得ればさらに価値は増すはずである。
それにしても、あの老いたアンソニーのその体は、あまりに衆目に耐えない印象を受ける。いや、だからこそあまりに象徴的ですらある。

つまり、社会の既存のヒエラルキーを無視するがために、自分の出生を偽った彼にとって、肉体とは正に偽りそのものであり、そんな体に何の意味があろうか。
ましてや彼が真に求めていたのは、肉体的な特徴に左右されるものではない、精神的な繋がりであるならば、その体がいかに醜かろうが何の支障も無いのだ。
そしてそれは養父に体を求められた二コールとて同じ。
彼女の肉体こそ、彼女の悲劇を招いたそのものであり、アンソニーのように偽ることはできないが、否定したいものであることは確かである。


ゲイリー・シニーズこそ、彼らの中で異質である。なぜなら、他の者は社会との精神的な繋がりをどこかで求めていたが、彼だけは社会との精神的な繋がりを拒否していたのだ。
つまり、自分の築き上げた名誉を貶められることに憤り、社会に背を向けたのである。
つまりアキレスと通じる。
だからこそ、アキレスがその力によって、ヒエラルキーを突き崩そうとしたように、彼もまたその筆によって社会のヒエラルキーに一石を投じるのだ。
その一石とはつまり「Human Stain」である。

それは、心地よいシーツの上に孤独のまま取り残されてしまった人々を中心に描きながら、社会の不条理を描く。
人種差別をし、当時は英雄として送り出した人を時代が変われば虐げ、何もしていない女を卑下する。他と同じでない部分を持つ人を蔑み自分のヒエラルキーを維持しようとする社会。
そんなヒエラルキーを創り出したのは間違っても少数派の彼等ではなく、大統領の不倫には感化され、モラルを語ってみせるが、身近のそれには無関心な、つまり表面を唯なぞっているだけの社会であり、そこに属する大部分の人である。
つまり、白いカラスを作り出す原因は社会であり、社会は自分に降りかかる火の粉を何とか避けようと、白い皮をかぶったカラスの集団である。
そこでは同じ色になりきれなかった人は、染みのように浮き出てしまう。

白い皮をかぶる行為は、なじめるはずも無いが、他に行き場が無いので、自ら檻の中に戻ってきたカラスと同じなのだ。
その状態は、周囲から守られはするが、代わりに自由を奪われているのであり、そんな状態で生き続けるよりも、心でつながった2人で死ぬことのほうがよっぽど幸せなのかも知れない。


梅雨の時期だというのに嘘のように晴れて、暑い日が続いている今年。
正にそれは全くの嘘で、本当は凍てついた湖であるような、そんな気がした。
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by nothing_but_movie | 2004-07-10 02:10 | Movie(H)
エンターテイメントとして映る警笛
a0008075_0235.jpg2004/7/4
恵比寿ガーデンシネマ

「ヴェロニカ・ゲリン」
(2003年 アメリカ)


監督:ジョエル・シュマッカー
製作:ジェリーブラッカイマー
脚本:キャロル・ドイル、メアリー・アンガス・ドナヒュー
出演:ケイト・ブランシェット、ジェラルド・マクソーレイ


リアルに仕上がっている。その仕上がりが、逆に、普通にはありえないような設定の映画やドラマを見慣れている私などにはつまらなくも見えてしまうことも否めないが、しかし、これが実際におきたことなのだから十分にすごいか。



私はジャーナリズムとは
「客観的な事実に主観的な解釈を加えて世間に広く公開すること、そしてそれに基き行動すること」
と認識している。唯の「報道」とは"主観的な解釈を加え、行動する"点が最も異なっていると思う。

"ジャーナリズム"が"報道"と似通った目的を持っていることを考えると、より存在価値のある"ジャーナリズム"とは、多くの人に認知されたものということになる。
さらに、"解釈"を加える"ジャーナリズム"は、多くの人を感化したものほど、その存在価値が大きいといえるのではないか。

では、
作中、最も人を感化した事件は何か。
事実はどうあれ、作中では彼女の死であり、彼女が伝えていたもの、そのものでは無かったように私には映った。

つまり、
私たちはあまりににも鈍感になってしまったのでは無いか。
"死"の報道がジャーナリズムより注目されるのは、ジャーナリズムが、軽視され、正に唯のエンターテイメントとなってしまっていることの象徴ではないか。

「子供の、麻薬による"死"について問題提起するが、それにはさほど関心を示さず、彼女の"死"があってはじめて問題として認知する」ということは、
「世間に不倫カップルが多くいても"モラル"の問題を提起しようと思わないが、大統領が不倫をすれば"モラル"を語ってみる気になる」
ということと、正に同じレベルではないか。つまり前述のとおりである。

こうなってしまった原因は多々あるだろう。
彼女の夫が望んだ、当たり前の気持ちですら、原因と言えなくも無いが、その気持ちを否定しようとは全く思わない。
しかしながら、この作品が、客観的な事実に主観的な解釈を加えてあるとすれば、感化された結果としてとるべき行動は、彼女のとった行動、つまりジャーナリズムである。
いやそこまでは及ばなくても、少しでもそれに近づき、そしてそういう人が多かったなら、この作品も彼女の人生も異なったものになっていたに違いない。

彼女の死こそ、警笛である。
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by nothing_but_movie | 2004-07-08 00:03 | Movie(V)
今週末レポート。
今週末は、

「ヴェロニカ・ゲリン」
「白いカラス」

でした。
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by nothing_but_movie | 2004-07-05 21:35 | 雑記
米俳優マーロン・ブランド死去
昨日の記事を書いた後、なんとなくYahooニュースを見ていたら、思いもよらない記事を見つけてしまった。

先週末に「Godfather」を見たばかりなので、なんともショック。あの渋く、そしてリアリティという言葉が軽く聞こえるほどのリアルな演技が、もう二度と見れないのかと思うと、残念でならない。



彼の代表作とも言える「地獄の黙示録」と「Godfather」は、高校生くらいのときに初めてビデオで見たと思う。
正直、リアルタイムで知っていた彼は、全盛期を過ぎた渋い脇役のイメージがどうしてもあったが、その時見た、全盛期の彼の演技は本当にすごくて、圧倒的な存在感があった。

去年の東京国際映画祭で「地獄の黙示録」を、先週末「Godfather」を念願かなって、ついに映画館のスクリーンで見ることができて、改めて、マーロン・ブランドの渋さ、かっこよさに惚れ直していただけに、かなりショックだ。


<訃報>米俳優のマーロン・ブランド氏死去

 【ワシントン和田浩明】「ゴッドファーザー」「地獄の黙示録」などに出演、戦後アメリカ映画界を代表する俳優だったマーロン・ブランド氏が1日、ロサンゼルスの病院で死亡した。80歳だった。同氏の弁護士が2日、AP通信に明らかにした。

 弁護士は「同氏はプライバシーを大切にする人物だった」として死因は明らかにしていない。

 ブランド氏はアカデミー賞を2度受賞。アル・パチーノやロバート・デ・ニーロなどの後輩男優の演技スタイルにも大きな影響を与えた。

 米ネブラスカ州生まれ。ニューヨーク・ブロードウェーでエリア・カザン演出の「欲望という名の電車」に出演し俳優として注目されるようになった。

 俳優活動のかたわら、アメリカ先住民の支援活動も推進。73年には、「ゴッドファーザー」でのアカデミー賞授賞式に代理の女性を出席させ、ハリウッドのアメリカ先住民対応を批判させるなどして受賞を拒否した。

 私生活では、90年に息子が娘の友人の殺害で有罪判決を受け、娘も5年後に自殺するなど、悲劇に見舞われた。

 ◇名優という評価の一方、「ハリウッドの異端児」

 1日死去したマーロン・ブランドさんは、名優の誉れを享受する一方、ハリウッドの異端児、反逆児などと称されスターのイメージを一新した。

 1951年の「欲望という名の電車」でのスクリーン登場は、衝撃的だった。ハリウッドの伝統的な二枚目スターとは一線を画し、整った顔立ちに頑強な肉体を誇示し、その態度はふてぶてしく、尊大。絵に描いたような美男子が行儀のよく分かりやすい芝居をするのが主流だったハリウッドで、体臭を感じさせるような生々しい演技で一気に注目を集める。役の内面を探究し、なりきって演じるメソッド演技を指導するアクターズ・スタジオで学び、ブランドさんの登場で、ハリウッドのスター像は大きく変わった。

 恵まれない家庭に育ち、少年時代には非行に走ったこともあった。女優志望の姉の影響で、俳優学校に入学する。20代前半でブロードウェイの舞台に立ち、映画も監督したエリア・カザン演出の「欲望という名の電車」で評価を固め、映画に進出。「革命児サパタ」(52年)、「ジュリアス・シーザー」(53年)などに出演し、54年の「波止場」で最初のアカデミー賞を受賞する。

 その後も次々と作品に出演するが、次第にハリウッドと距離を保つようになっていく。72年「ゴッドファーザー」で2度目のアカデミー賞主演男優賞を受けた際には、「インディアンを差別している」と受け取りを拒否した。役柄と同様、ハリウッドの反逆児、孤高のイメージを強めていった。72年の「ラスト・タンゴ・イン・パリ」、さらには79年の「地獄の黙示録」で演じた、ベトナム戦争の狂気に捕らわれたカーツ大佐の鬼気迫る演技で名優の評価を揺るぎないものにした。

 晩年は肥満に悩んだり、気難しいイメージで見られたりもしたが、「白く渇いた季節」(89年)でアカデミー助演男優賞候補に挙がり、「ドンファン」(95年)、ロバート・デ・ニーロと共演した「スコア」(01年)などに出演し、演技には最後まで執念を見せていた。【勝田友巳】

 ◇映画評論家の品田雄吉さんの話

 カリスマ性のあるスターで、米国映画界での存在感は大きかった。独特のしゃべり方と内面から役になりきる演技スタイルが衝撃的だった。近年は年をとったせいもあって銀幕から退いていたが、米国映画界に埋められない穴が開いてしまった。(毎日新聞)

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by nothing_but_movie | 2004-07-04 23:14 | 雑記