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極致
a0008075_13150.jpgまさかこんな日が来るとは夢にも思っていなかった。
この作品を映画館で見れる日が来るなんて思っていなかった。

リアルタイムの公開の時に見ていない私が、この作品に対して何か言える立場ではないのは十分理解しているのだけども、あまりにうれしいのだ。

実は、既に午前中に二本見ていて、これらが想像以上にすばらしい作品だったので、正直この作品をその日に見てしまうのが、少し不安な気持ちがあった。もったいない気もした。

しかし、そんな心配は杞憂に過ぎなかった。
近年の映画には見られなくなった重厚な迫力が此れにはある。

正に映画とはこのような作品を言うのかもしれない。哲学にあふれている。
ここまで寡黙にして饒舌、陰鬱にして華やかな作品が、此れまでいくつあったことか。
30年の時代を超えて、観客にこれほど語りかけることのできる作品が、これまでいくつあったことか。
すばらしいの一言に尽きる。学ぶべきものは多く、示唆にあふれている。
完璧なストーリーと演出と音楽と映像と演技と、正にその存在自体が完璧なのだ。

なぜこんなものが作り出せるのか。
私には到底理解できない。
F.F.コッポラは正に芸術の極致に存在している。
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by nothing_but_movie | 2004-07-03 01:33 | Movie(G)
無目的の中の目的
a0008075_03454.jpg今週見た他の2作と、うって変わって、かるいノリの作品。
F・F・コッポラを叔父に持つ元スマッシングパンプキンズのジェイソン・シュワルツマンの雰囲気がこの作品にベストマッチしてる。
まー、でもミッキ・ロークの久々のいい演技のほうが要注目。
作品としては「トレインスポッティング」のまんまといってしまえばそれまでかもしれないけど、この作品の音楽と映像は、トレインスポッティングのそれを超えるくらいすばらしい。好きだなこういうの。とてもスタイリッシュ。

製作のクリス・ハンレイはインディペンデンス系のプロデューサーとして、かなりすごい人。この人が製作についてる映画は個人的にかなりヒットしてるものが多く、特に「アメリカン・サイコ」は常に自宅のテレビに映しておきたいくらい好きだ。

それにしてもコッポラ一族は最近活躍しまくりだ。



スタイリッシュなキャラクターと、それに劣らずスタイリッシュな映像、そしてそれらに溶け込む音楽。
見事な調和が作り出されているこの作品は、しかしその調和こそが、まわりの世界と彼らとの隔絶を際立たせる。
その中でうごめく人は、やはりというか、結果として世間に調和しておらず、ひたすら仲間内で、仲良くやろうとするのだけど、やっぱり、どっちかというとすれ違いばかりで、理解しようとしても理解できない他人ばかりで、一番近いはずの人にすら理解されず、そんな自分も理解できない、ただの居場所の無いのけ者として存在している。

そんな状態から脱しようと、色々動いてはみるけど堂々巡りでまたもとの場所に戻ってくる。誰かに助けを求めても結局無駄で、仕方ないから悪態でもついてみて、それにも飽きたらやめてしまえばいい。

ダメ人間の吹き溜まりのようなこの作品は、じゃ見る価値は無いかって言われると、そうかもしれないけど、そうじゃない。

何も目的を持たないで生きているからこそ、生きる理由を探すのに必死で、だから、いろんなものが見えるわけで、そんな彼らを通して、この世界を見ると、自分にもまだまだいろんなことができるんじゃないか、いろんなものがあるんじゃないかって気になって、だけど別に成功しなくてもいいって気にもさせてくれて、じゃ久し振りに色々もがいてみるかって気にさせてくれる。
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by nothing_but_movie | 2004-07-02 00:30 | Movie(S)
終わることによって引き継がれる永遠
a0008075_12154.jpgもしあの時、マルコビッチが一言でも話せば、私もこんな罪悪感にさいなまれずに済んだだろう。

母も子も、穏やかで幸せそうな表情だった。その何気ない仕草、会話に微かに感じられる程度だが、確かにそこには期待感と幸せが満ち溢れていた。
それに応えんばかりに古代の遺跡は二人を迎え、そこにいる人もまた、二人を迎え、そしてまた、二人もそれらを受容する。
それはあまりに当たり前に映ったが、それは私が今生きているからであって、それらがこの世界に現れたときは、あまりに奇妙な光景であったに違いない。

異国の地に気軽に赴き、そこに住む人と言葉を交わし、食事をし、物を買い、同じ歌を聴き、すばらしい景色をじっくり眺め、人生を楽しむ。そんなことは当たり前だと思う。
しかしそれと対比するように、母が語る歴史は、権力の争いと、悲劇に満ちていて、当たり前の幸せが、当たり前でないものだということに改めて気付かされる。

そして、オリヴェイラはその幸せを、バビロンを現出させることであまりにも美しく、幻想的に描き出す。そのあまりの美しさと自然さに、自分の耳と目を疑う。
しかしこれは紛れも無く現実である。こんなにも幸せなな時代が、かつてあったのだろうか。

私は豊かで幸せな世界に生きている。そう思った。だから思った。こんな当たり前なことを描くこれは、あまりに駄作だ。
つまり私は間違っていた。


再び私は自分の目と耳を疑う。
まさにその瞬間映画は終わりを告げ、そしてマルコビッチはその動きを止める。それはしかし、映画の終わりを告げるのものだが、思考の終わりを告げるものではない。
だから私は、マルコビッチの思考を嫌がおうにも引き継がざるをおえず、考えてしまうのだ。
その後のこと、親子のこと、そして今私が生きている、これ以上無い不幸な世界のこと。

何の意味があるのか?なぜ彼らか?互いに理解し、許容しうる能力と、力と、知識と、豊かさがありながら、それらを蔑ろに、当たり前のように争いを繰り返す今の世界は、幸せか?

もしあの時、マルコビッチが一言でも話せば、嗚咽の声ひとつでも漏らせば、もっともらしい後悔の言葉の一つでも漏らせば、私はそれに安堵し、納得し、この不幸を彼の問題だと認識することができ、こんな罪悪感にさいなまれることも無かっただろう。

彼の停止は映画の終わりを告げるのものだが、思考の終わりを告げるものではない。
では思考が停止するのはいつか。
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by nothing_but_movie | 2004-07-01 01:18 | Movie(T)