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リビングデッドに花束を
a0008075_22511434.jpg2005/8/27 新宿東亜興行チェーン




「Land of the Dead」(「ランド・オブ・ザ・デッド」)
(2005年アメリカ/カナダ/フランス)


監督/脚本:ジョージ・A・ロメロ
出演:サイモン・ベイカー、デニス・ホッパー、アーシア・アルジェント、ロバート・ジョイ、ジョン・レグイザモ





ゾンビを人類生存のために只排除するべき存在として映画に定着させたのも彼であるならば、その存在意義をさらに高めたのも彼であったと。この映画はその点において、他のゾンビ映画と一線を隔しているのですが、しかしながらなぜ今になって彼等の産みの親であるロメロがそのような選択に至ったのでしょうか。ゾンビに"生の否定"と同時に"生への執着"という特質を与え、完全に人間と対立する存在として彼等を創ったロメロのこの心変わりは、往年のファンには違和感を覚えざるをえない点であり、その点について否定する気は全くありませんが、しかし思えば、生の執着こそ人の特質であり、その意味では元々ゾンビと人間は非常に近い存在であると言っても過言ではなく、だからこそ、その特性を生かした作品を創る必要があったのではないでしょうか。

ゾンビは通常、結果はどうであれ有無も言わさず排除される存在であり、且つそれが唯一の存在理由であり、またゾンビ映画の唯一のストーリーだったハズです。しかし、この作品は冒頭で、この基本であり唯一の選択肢を捨ててしまうという、極めて冒険的な展開を見せます。ではその古典的定石の代わりにこの作品は何を描いたのか。結論から言うと、二十重に張られたヒエラルキーの上層への反感という縦糸のもと、ニューヨークを思わせる、3辺を水域に囲まれた人類最後の都市を舞台にバトルロイヤルを展開し、そしてそこにテロや、差別、貧富の差、権力の腐敗、絶対的な身分等など、およそ思いつきそうな社会風刺を取り入れたと。まぁそんな感じで、ゾンビ映画にして社会派な仕上がりを実現したわけです。グロさも抑え気味で、結果的にそれなりに一般ウケする作品に仕上がっています。

しかし此処で終われば凡作。只ゾンビが真面目にゾンビらしく振舞うだけの映画など今更、求めている人がいるはずも無く、そんなことはロメロであれば十分知っているはずです。従ってロメロは何かを仕掛けているはずで、私はそれは"ゾンビ≠人間"という式の転換、つまり"ゾンビ=人間"を成立させることにあったのではないかと思っています。


今回の作品では彼等は人間の社会と断絶せず、そのヒエラルキーの最下層に位置し、常にささやかな生活を脅かされる存在として描かれました。ヒエラルキーの上層には平凡な人間が平凡に"エサ"として存在し、その上にはその"エサ"を喰らう権力を持った人間が、そして平凡な人間と、権力を持った人間の生活を支えるために、傭兵が存在します。傭兵は生活を保障されておらず、ヒエラルキーのなかではゾンビに一番近いところに位置しており、その中には当然、与えられた任務の重要性と危険性に比例しない待遇から、権力に対する反感が生まれてくるのですが、それはゾンビが持つ、ゾンビの存在を全否定し、生の権利を振りかざす人間への反感と、ベクトルが一致するのです。さらに、今回はゾンビには知性が与えられたのですが、実際彼等がやっていることは知性が無いときとさほど変わらず、取り立てて役に立っていないと言えばそれまでですが、敢えて役に立っている点をあげるとすれば、それは人間を襲うという行為に明確な動機と意思を感じさせたこと。それだけではありますが、しかしその明確な動機と意思を感じさせるということが、今作において非常に重要な、"ゾンビへの共感"をつくるための素地になっているのです。

ヒエラルキーの上層に対する反感は、スクリーンの外にも存在するのは言うまでもなく、その構造をデフォルメしてスクリーン内部に表現すれば、観客が下層にいる傭兵に共感するのは至極あたりまえの話です。そしてそれはそのまま、意思と動機を感じさせ、同じベクトルの感情を持ち、人間を思わせるゾンビへと転嫁することが出来るのです。そのため、観客は反人間であるはずのゾンビに知らないうちに共感させられるのです。この作品において、"ゾンビへの共感"は前述のように非常に重要な意味を持っており、この作品の根幹を支えるものです。そのためロメロは非常に慎重に、"ゾンビへの共感"を生み出すための構造を作り出します。


タイトル「Land of the dead」の"Land"は何処を指すか。もちろん社会風刺を十分すぎるほど取り入れているこの作品の舞台が、この世界そのものであることに疑う余地はありません。ではそこをうごめく生ける屍とは何のことか。もちろん現実にゾンビなどはいないのですから、この地を埋め尽くしている"人間"以外にありえません。このことは、生きる目的を感じさせず、日々黙々と喰らい、増殖を続け、数あるいはその力によって、弱者あるいは少数からの搾取を続ける"人間"が、数十年前にロメロが描いてきたゾンビ像と見事に重なることを考えれば妥当な帰結だと思います。つまり、今の"人間"はゾンビと同じようなことをやっていると言う点で、ゾンビと本質的にはさほど変わらないのです。さらに、今作でゾンビが人間寄りに進歩したことによって"ゾンビ=人間"という等式は限りなく成立に近づきます。このような状態では、単にゾンビを排除しただけでは「Land of the dead」の世界は終わりを告げません。これを変えるため、つまり本質的な生きる屍を排除し、この死の世界を終わらせるためには、ゾンビと同じ様に腐敗しきった"人間"を変えるしか選択肢がありません。そのためロメロは、"人間"の醜さを描き出し理解させ、変化へのきっかけを与えようと考えたのではないでしょうか。

以上のように考えたとき、今回唐突に与えられたゾンビの知性の意味と、それと同時に、最後に打ち上げられた花火の意味が導き出せます。あの花火は、例えば安直にエンディングをなんとなく派手にしたいから上げられたものでは、当然ありません。ゾンビにはあまりにも不釣合いでありながら、作品の冒頭から強調されるあれは何か。恐らくこの作品を創る際にロメロが意識したのは、彼がゾンビを生みだすおよそ10年前に、無知な存在に知性を与え、その視座から世間を捉えせることで、人間の本当の姿を浮き彫りにした、ダニエルキイスの作品ではないでしょうか。だとしたら知性を与えられた彼等はアルジャーノン。最後に打ち上げられた花火は彼らに捧げられた花束と言うことになります。
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by nothing_but_movie | 2005-09-21 23:04 | Movie(L)
非情の中に幸せを感じて
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2005/08/20 シャンテ・シネ


「5X2」(Five times two)
(「ふたりの5つの分かれ路」)
(2004年フランス)


監督:フランソワ・オゾン
脚本:フランソワ・オゾン、エマニュエル・ベルンエイム
出演:ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ、ステファン・フレイス、ジェラルディン・ペラス、フランソワーズ・ファビアン、アントワーヌ・シャピー



この映画で最も印象的なのはやはり序盤。弁護士が出てくるシーンではなく、2人だけのシーン。つまりホテルの部屋でのシークエンス。法的手続きを終えた二人は離婚した夫婦には似つかわしくない、ホテルの一室を訪れる。そこで2人は恋人達がするように、SEXをはじめるが上手くいかない。レイプにすら見える。傍目には駄目押しにすら見えてしまうこのホテルの部屋での出来事の後、部屋を出て行こうとする女に男が「もう一度やり直せないか」と言う。無謀にも程があるようにも感じるがしかし、恋愛は感情だけの産物で、そこには本質的にルールが無い事を考えると、この一連の出来事は男の最後の望みをかけたものであったことが伺える。

人は恋愛という感情の産物に対して、感情とは対極に位置する法律というルールを持ち込んだ。これによって恋愛はルールによって、終わらせることが出来るようになったかに見えるが、やはりそんなことはなくて、恋愛は感情だけで成立している。例え法律的に離婚しても、ホテルの部屋で上手くいくような2人はその後も上手くいくのだろうし、此処で上手くいかないのであれば、それは完全な終わり以外のなにものでもない。男はこの法律という表面的なルールに隠れているかもしれない、最後の感情を確かめようとしたのではないか。しかしもちろんそんなものは無かったわけで、逆にこの行為は駄目押しとも取れるような惨憺な結果を生むだけっだったりするのですが。


現在から未来の結末はどうやっても知りようがありませんが、現在に対する過去の遠因は探れる、否、探ってしまうのが人の常。"現在"の顛末を知った観客はどうしてもその原因を過去へ求めてしまうのですが、オゾンが用意した映像が果たしてこの"現在"へ直接通じる原因だったかというとそれは明確には語られず、専ら男の視点から語られるこの"過去"の物語は、あるいはホテルに一人残された男の思考のほんの一部を描いただけという可能性も安易に捨てられないとも思えたり、つまりは男が現在の遠因を過去に求め、さらにそこから観客が遠因を推測するという、二重の妄想がそこにあるだけで、じつは彼女が考えていたことはもっと別のところにあった可能性も捨てきれないのでは。

思い起されるエピソードは冷静に考えればいずれも、そこまで深刻な話でも無いような気がしますが、あのような"現在"を見せられてからではどう見ても離婚の遠因に見えてしまったりしてしまいます。それは、一番不幸な現在から遠いはずの最後の出会いのシークエンスですら例外ではなくて、二人が海に向かって一緒に歩みだして直ぐに、日は山の陰へと隠れる。そんなことにまで、あまりに残酷というか冷徹な比喩を見いだしてしまったり。

否、しかし喧嘩で済みそうな話や、日が沈むというあたりまえの現実を映したシークエンスを残酷と呼ぶのだとすれば、全てから同じような比喩がいくつでも見つかると言うもの。しかし仮にそうだとしてもそんな残酷な現実に生きているわりには意外と人は幸せな時間を多く持っているのかも知れない。そんなことを時間だけでなく物語りそのものをひっくり返すのが好きなオゾンは言いたかったのかもしれない。
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by nothing_but_movie | 2005-09-21 00:40 | Movie(数)
どういうわけかは知りませんが、
そういうわけで、3連休を映画とDVDに費やし、本日から再び3日間仕事をし、何事も無く平和であれば、また3連休がやってくると、これほど気を抜ける1週間てのも1年の中ではあまり無いものですからのんびりする感じで。

そういうわけで、

「Nothing」
「シンデレラマン」
「チャーリーとチョコレート工場」
「シュガー」
「ハードコア・デイズ」

の5本を鑑賞。ナタリはキューブの頃に戻ったうえで、少し丸くなった感じ、「シンデレラマン」は悪く言えば言葉たらず、よく言えば抑え気味で背景を読ませる感じですが、その背景も浅く、表面的な優等生の印象。「シュガー」はまぁあれです。見た後警察に切符を切られたので、心象が悪く。「ハードコア・デイズ」は単純ですが時計を使った心象表現が印象的。とは言っても「ハードコア・・・」よりは「シュガー」の方が全体的に良い仕上がり。そういうわけで、デップとティム・バートンの独壇場の今週末。変人コンビはハズレることを知りません。と言うか、毎回遊び心に富んだ作品をティム・バートンは作りますが、今回はその遊び方が今までと少し違うよう。これほど自分の作品が好きな人だとは思っていませんでした。ジョニー・デップも、最近出た「ネバー・ランド」という最悪の作品のときと比べるのが馬鹿なくらい持ち味が出ていて、非常にはまり役だったのでは。
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by nothing_but_movie | 2005-09-21 00:26 | 雑記
表は何処に
先週末は

「エコーズ」
「理想の女」

さて、先週末は・・・なんて話しを今さらしても仕方が無いのでやめておきます。今週は月曜日から久しぶりの出張があったりなんだりであっという間に金曜日になってしまったと、そんな感じの1週間。それにしてもこんな誰も知らなくても良いようなことを、誰が見ているかも分からないこのような場所に書いているなんて、余程の馬鹿か暇人かて感じですね。しかし、チラシの裏にでも書いて捨ててしまえば良いような生活を送る、チラシの裏のようにあっても無くてもどうでも良い人間でも、此処ではその存在を他者に示せたりするわけですが。しかし、チラシの裏に何か意味があるかといえば、それはやはり表があっての裏であり、そこに価値は全くなく、表のおかげで存在しているだけであると。つまり私の生活が裏であるならば、その表があるはずで、私の人生はその表に必然的に付随するものであるワケです。では、私の表はどこにあるのか、そんなことは裏からは当然わからなかったりもしますが、差し当たり見つけたとしたら、チラシの裏の人生を生み出してくれたそれを、恨むべきか、感謝するべきか、それを決めておくことにしましょうかね。まぁしかし、表のほうも所詮はチラシと言うことを考慮して、前者よりの後者、傍から見れば卑屈なチラシの裏てのが私には似合っていそうです。

「エコーズ」はそれなりに掘り出し物の感じですが、全体的に薄味。「理想の人」はなかなか楽しい作品でした。
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by nothing_but_movie | 2005-09-16 01:53 | 雑記
しかし、ただ短ければ良いというワケでもありません
先日同様、やる気も糞もあったものじゃない満員電車に揺られて出社し、既に疲れ果てた感じでPCを起動。程なくすると、つい数ヶ月前まで毎週赴いていた出張先の南の国(否、実際には東京とほとんど緯度が変わらず、イメージの中だけ南なのですが)で一緒に仕事をしていたヒトがメッセンジャーにログオンしてきて、こんな時間に珍しいなと思っていたら、「今日は台風のおかげで仕事が休みになりました」と。「そんなに酷いのですか?」、「今はそれほどでも無いのですが、帰る頃には電車は全て止まるらしいです」なんてやり取りをしながら、なるほど、確かに直撃してしまえばそれこそ交通インフラが麻痺しますから、半端に雨が降るよりも結果的に良いのかも、なんて考えたり。てことで、次の台風はどうか午前10時から、17時に掛けて東京を直撃しますように。と、遥か昔に過ぎ去った幼少の時に聞いた「学級閉鎖」なんて言葉を久しぶりに思い出しながら願ってみたりして、既にあったものじゃないやる気を仕事とは間逆に使ってしまいました。あ、しかし今思えば、学校は1日や2日休みになろうが大した皺寄せはありませんでしたが、仕事は休めばその分だけ皺寄せがあるわけで、うーん、そうすると交通麻痺もやはり中途半端。かくなるうえは某世界の警察の某州のように都市全体が麻痺するように願うことにします。と、不謹慎でした。

で、ここ数日長文が続いているものですから、此処でやめるのも何か足りない気がしてアレなのですが、しかしここ数日の長文に何か足りているかと言えばそうでもないわけで、であれば短いほうが良いというのは必然の帰結ですから、これはこれで良いとしましょう。
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by nothing_but_movie | 2005-09-07 00:40 | 雑記
私が如何にして週末を過ごしたか
さて、本日も滞りなく仕事を終わらせ、無事帰宅。で、特にやることも無くいつものようにPCに向かって駄文などを綴っているわけです。それにしてもまた台風が来ているよう。先週も来ていた気もしないでもないのですが、まぁ秋が近づいてきているということなので、暑いのが苦手な私としては歓迎すべきことなのですが、雨は基本的に煩わしいだけなのでいただけないなと。別に雨の日には出かけなければ良いだけの話なのですが、悲しいかなサラリーマンはそうも言ってられないわけで、そして唯でさえ嫌な満員電車に乗った日には、やる気も糞もあったものじゃありませんと。天気に文句を言ったところでどうにかなるわけでもなく、そもそも"誰"に対する文句なのかも分からないことをこれ以上書いてもアレなのですが、要は台風と雨なしで秋になってくれ、あるいは雨の日は仕事を休みにしてくれと、そういうことです。

先週の金曜日は普通に仕事、普通に帰宅。と書いておきつつ既に記憶が曖昧。何をしていましたっけ?要は特に記憶に残るようなことも無かったてことでしょう。と書いてから金曜付けの文章を確認。あ、そうそう結局弟に説得されて、母親と食事をしたのでした。弟も同席。この顔ぶれがそろうのは実に数年ぶりのこと。と、世間一般的には揃っても何も意味を持たないない顔ぶれに対して使うには聊かもったいぶった言い回しでした。で、年月の割には話すことも無いので淡々と、黙々と、食事と言う本来の目的に集中し、そのおかげか特に混乱も無く。唯、傍から見れば、妙に緊張感の漂うテーブルだったのは間違いなさそうです。唯一の収穫は年末に顔を見せなくても良い口実を得たと、それくらいでしょうか。

土曜日は連れと新宿で撞球へ。此処半年くらいは久しく行っていなかったのですが、最近は連れに教えがてら週に1回くらいは行くようになり、先日は4時間も。おかげで捻りなんかがだいぶもとの調子に戻ってきたよう。少し前は私も貪欲に練習に明け暮れていたのですが、最近はそこまでの熱意も体力も無く。調子は戻ってきましたが、これ以上は望むべくもなさそう。老いとはつまり上を望まなくなること、すなわち諦めであると、そして最後は目を開けることを諦めると、そんな感じのことを思いつつも、玉を睨んでいたわけです。その後、近くの居酒屋でアルコールを。運動の後の酒は美味いなと。撞球などその他のに比べれば運動量等、高が知れているのですが、普段体など動かさない私にとってはほど良い感じと。

で肝心の映画は日曜日に渋谷で

「クレールの刺繍」
「メトロで恋して」

前者はどうにも薄っぺらい感じ。後者は編集が惨いことになってる感じ。と、肝心の映画の話は1行にも満たない字数で終わってしまったり。これくらいなら書かなければ良いと言う話もあるのでしょうが、此処の目的は私の忘却への些細な抵抗であったりするので、これだけでも私にとっては意味があると。後日レビューを書くのであればこの程度のことは書かなくても良いとは思うのですが、見た直後にこの程度のことしか思わない作品について、あれこれ駄文を並べても非生産的この上ないですから、感じたままをとりあえず残しておこうかなと。

最近作品のタイトルだけがおまけ的に紛れ込んでいるような文章にもトラックバックを頂くことがあるのですが、これは何時まともなレビューが書かれるか分からない、否、書いた頃には既に映画自体が旧作になっていると言うことが往々にしてあるので、とりあえずタイトルが含まれている、私が如何にして週末を過ごしたかといった文章にトラックバックをしとこうと言う事なんでしょうか?トラックバックはありがたいですし、その機能を保持している以上「イヤです」とも「ダメです」ともいう気は無いので存分にしていただいて構わないのですが、一応私もトラックバックを頂いたからには「お返しをしなくちゃ」とか思ったりもするわけで、その際にちゃんとしたレビューを書いた時にしたほうが良いのか、それともそのつらつらと、私が如何にして週末を過ごしたかが書かれている文章をそのまま返せば良いのか、これがさしあたっての悩みだったり。本日のような駄文をそのまま返されたところで、喜ばれるとも思えませんし、かといってレビューを書くことも少ないですから、もらいっぱなしになってしまうことも多いですし、と、まぁ大袈裟に言ってみただけです。
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by nothing_but_movie | 2005-09-05 23:18 | 雑記
まぁこれも見えない恐怖と言えばそうなりますか
携帯電話を持ち始めた当初はドコモのそれを使っていたのですが、ある日ふと、横柄で停滞気味なドコモに嫌気がさし、当時ドコモに非常に挑戦的なCMを流していたauに切り替え、それ以来ずっとauを使っており、今は数年前に出た白くて折りたためないやつを使っていたりします。非常に気に入っていたその電話も、最近その機種特有の欠陥らしいアンテナの根元部分の割れが生じたり、電池パックを止める部分の破損が生じたりして、そろそろ別のに変えようかなとも思っているのですが、なかなか気に入るのが無くて、唯一少し気になるのがアンテナの無い折りたためない奴だったりもするのですがいまいち踏ん切りがつかなかったりしています。しかし携帯全般について言えることですが、あのいかにも玩具っぽいデザインは何とかならないのですね。

で、なぜ携帯の話しなんかをしたかといえば、つい先日、と言っても先週末の話になるのですが、映画館を出て携帯の電源を入れるとに1通のCメールが。「30日から横浜に行ってるので、9/2日に会いませんか」と記述されたそれの送信元は不明な番号。Cメールはau同士で電話番号が分かっている相手であれば送れるメールですし、横浜は以前住んでましたし、昔の知り合いかとも思ったのですが、私の番号を相手が知っており、且つ会いたいと言ってくるような人で、私が番号を知らないヒトなんて心当たりありませんし、と言うか、そもそもこんな無粋なメールを書く知り合いに心当たりがありませんし、自分の電話番号をむやみに流布するようなこともしていませんから、どうせスパムかなんかの類だろうと放置しておりました。ところが昨日その番号から電話があって、興味本位で出てみると、実は私の母親だったと、まぁさして面白くもなんともないオチに落ち着きましたが、しかし良い年をして出会い系のスパムのようなメールを書かないでほしいですね。まぁ恐らく慣れないものを持ったものだから、使ってみたくなったのでしょうが。で、要件はと言うと仕事でこちらに来ているから、会わないかと、そういうことだったのですが、性格も合わなければ、話も合わないし、会えば口論にしかならない相手に貴重な時間を費やすのもアレなので、会ってもお互い良いことはありませんよ、と丁重に断っておきました。それにしても、迂闊に変な返信をしていたらどんな話しになっていたのか。想像するだけでも恐ろしい話です。まぁ返信すること自体ありえませんが。


話は変わって、やはり宣言は守れなかったのですが、凡そ1ヶ月ぶりに映画についての駄文をアップ。とは言ってもとっくに東京のスクリーンからは姿を消してしまった作品についてなのですが、よろしければ。と言いつつもいつにもましてネタバレ気味ですので、未見のかたはビデヲなんかを見てからどうぞ。
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by nothing_but_movie | 2005-09-02 01:07 | 雑記
水面の下の意識
a0008075_22435098.jpg2005/6/25 シネクイント



「Open Water」(「オープン・ウォーター」)
(2003年アメリカ)


監督・脚本:クリス・ケンティス
出演:ブランチャード・ライアン、ダニエル・トラヴィス、ソウル・スタイン、エステル・ラウ、マイケル・E・ウィリアムソン




家族連れできていた何処ぞのオジサンが帰りのエレベーターでやたらでかい声で「船からはぐれたらまずボンベを捨てて、スーツに空気を入れて仰向けになって浮かぶんだ。だから最後にボンベを捨てたあの映画はおかしい。」と家族に自慢気に言うと。「お父さんよくそんな事知っているねー」と娘。母親はその横で微笑んでいて、典型的な"幸せな家族"だなぁなんて思ったり。で、その典型的な"幸せな家族"を支えているだろう"幸せな"父親の言った事を、あのような状況に陥るようなこと自体やらない私ですが、念のため覚えておこうかなと思いました。非常に有意義な知識ですからね。

てのは半分は実話、半分は皮肉(「あのような状況に…」あたりから)なのですが、このような自分が常に価値のある人間であり、誰かから常にかまわれていないと気のすまないような性質の"幸せな"オジサンにとって、これは唯の海難事故にしか見えなかったことでしょう。しかし、この作品で描いているものは携帯やネットで常に誰かと繋がっていないと不安になってしまうような現代人の潜在的なそれ。常に家族に囲まれていないと不安になるオジサンのそれ。つまりは自分が誰からも注目されないどころか、存在すら認識されない、そういう孤立や孤独に対して、現代人が潜在的に持つ恐怖について描いたものでしょう。つまりこの作品におけるカメラは、普段意識しない潜在的な意識に焦点を当てていたわけで、表面的な"正しさ"などは何も語っていないに等しいのです。

誰からも省みられることなく、忘れ去られ死んでいくという事故は、しばしば現実に起きており、現代であれば誰もが持っている"潜在的な恐怖"でありながら、あまり語られないのは、その存在自体が意識の中で"忘れられている"がため。忘れられた時点でこの"潜在的な恐怖"は"無い"ものになってしまっているのです。エンドロール時に、カメラを腹の中から見つけた男が、そのことが示す事態に思いが巡らず、嬉々として会話を続ける姿は、この作品の"潜在的な恐怖"がいかに人の頭の中で"無い"ことにされているかを良く現しています。このように人の意識の中で"無い"とされているものは、"無い"のですから基本的に思いが及ぶはずも無く、当然映画にもなりにくい訳ですが、しかしながら本作は、それを見事な着想と、想像力のもと、映像に転化することに成功しているのです。

人の潜在意識はよく水面下の氷山の隠れた部分とか言われますが、この映画の中盤以降ではそれが非常に意識された映像になっていて、つまりそのまま海面より上が意識の世界、下が潜在意識の世界。そしてまた海面より上がわれわれが普段生活しているあたりまえの日常だったり、文明。それに対して下がそれと対極の非日常の世界であり、文明とは間逆の、大昔に進化を止めたサメがいる世界だったりするのです。その設定を律儀に守る恐怖の象徴であるサメは、スピルバーグのそれのようにことさら接近を強調(あの有名な音楽など)したりせず、あくまで水面下を泳ぎ、間違っても海面にザバとは上がってこないのです。同じ視点で見ると、最後に女が水面下へ姿を消すシーンは、潜在意識にある恐怖に飲み込まれたことを現していることになり、サメに食われたことを現したわけではないのです(もしそうであれば俯瞰ではないはずです)。つまり、この作品の主題である"潜在的な恐怖"である、意識上から見えなくなること、つまり"忘れられる"ことを映像的に表現しているのです。

実際にこのような状況に陥った場合、どのように対処するべきかは興味も無いですし、そもそも私には必要がありませんから置いておくとして、劇中の彼らが最後まで、重たいボンベを持っているのに、遭難早々にバラストを捨てたという行為の矛盾は、それらのモノの属性を考えればわかる話。つまりボンベは浮かぶための空気が詰まっているものであり、また、文明とは無縁の海上において唯一文明を感じ、そこへの回帰を予感させるものであるのに対して、バラストは海へ沈むためのもの、つまり潜在意識の中の恐怖へ彼らを引きずり込むものであって、文明への回帰を切望する彼らにとっては正反対のものであったりするからなのです。従って、彼等は最初にバラストを、最後に諦めから、文明との接点であるボンベを捨てるわけで、これは完全な映画的表現。間違っても重さの問題ではないのです。

彼らは最終的には恐怖の象徴であるサメの腹の中に納まり、文字通り恐怖に飲まれるという結末を迎えるのですが、エンドロールではそのサメの腹の中から"カメラ"が出てきます。恐らくこれは"潜在的な恐怖"を写したこの"映画"の象徴だったりします。しかし、その"カメラ"を見つけた男は嬉々としているだけで全く恐怖しない。これは前述のように"潜在的な恐怖"を忘れていてこの事実の裏に隠れている簡単な事件に意識が及んでいないことを示しているのですが、今思えば、このことはまるでこの"映画"を見ても全くその恐怖の本質を理解していないエレベーターのオジサンの反応を予見したものとも言えて、上手いまとめ方だなと感心。

とりあえずサンダンス受けするつくりなのは確かで、今年見ておくべき作品。と、言いつつもとっくの昔に東京のスクリーンからは姿を消してしまっていたり。それ以外の地域ではまだやっているような気がしますので、良ければ。と、此処までネタバレさせた後で言ってみたり。


ビールで丹精こめて作り上げられたその腹は、スーツに空気なんか入れなくても、十分海に浮きますよ。
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by nothing_but_movie | 2005-09-01 23:20 | Movie(O)