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デレクに惑う
2004/10/09 UPLINK X
2004/10/16



「カラヴァッジオ」(1986)
「ウォー・レクイエム」(1989)
「ザ・ガーデン」(1990)
「ラスト・オブ・イングランド」(1987)

監督: デレク・ジャーマン


ここ2週間で、「カラヴァッジオ」、「ウォー・レクイエム」、「ザ・ガーデン」、「ラスト・オブ・イングランド」とデレク・ジャーマンの作品を4本見た。正直これほど消化不良を起こす作品は今まで無かった。私の知見が少ないといえばそれまでで、また感性の問題といってしまえばこれもまたそうなのだろけれども、それにしても消化不良著しかった。
しかし、この消化不良は作品そのものが消化できないというよりは、むしろデレク本人を理解できなかったというほうがより正しい。
作品を4本も見ればそれなりに人となりが見えてくるような、少なくともその人が根底に持つ考えが見える、そんな気がしているのだが、デレクに関して言えばほとんど見えることは無かった。それがそのまま私の中で"作品を昇華"させることを難しくしたのかもしれない。しかし、昇華してみればこれほど印象的な作品はそう無い。そう結論せざるを得なくなった。

何より、全ての映像に無駄が無く、それでいて解釈の幅は広い。そう感じる。4本を総評するという暴挙が許されるとするなら、自分やデレクの投影により紡ぎだされる物語。そんな印象だ。つまり、見た人の解釈により、その物語は如何様にも解釈を異にすることができる。この自由さが魅力であり、つまりデレクの良さではないかと思う。

この手法は映画よりも絵画に近い。そんな気がする。
一般に、絵画等の芸術は言語よりも解釈の幅を広げつつもより直接的に考えや感情を伝えるものだと考えることができると思う。言語はその発生過程からも分かるように必ず社会的な理解が付随し、そこから独立して解釈することは不可能だ。しかしこの特性から言語は1:多の伝達が可能だ。
絵画などの芸術はそうではなく、極端な例を言えば、言葉も知らない子供でも、そこに何らかの着想を得ることができる。その着想は当然一様でなく、また普遍ではない。これが絵画の本質だと思う。そしてこの特性がゆえに芸術は1:1の伝達しかありえない。
よく絵画の解釈を垂れる輩がいるが、それはそれでよいが、しかしそれは一面でしかなく、絵画という言語よりも高度で多面的で豊かな存在を、言語という画一的で貧弱なものに置き換え、そのすばらしさを減じている、あるいは一部のみを伝えているに過ぎないと思う。絵画や芸術は本質的にはそこに言語が無くとも成立しうるのだ。

デレクの作品はほとんど台詞が無い。
これはより豊かな映像に全てを語らせたためだと思うが、だからこそデレクの作品には幅があり、豊かでありながら、それを観た人はそれぞれ徐々に何らかの帰結を得ることができる。
そして1:1の伝達しかなしえない。つまり絵画に近い。
さらにいうなら、既にさまざまな色がデレクによって塗られているにもかかわらず、それを塗り替えることも許容されているような、そんな感じすら与えてくれる。

念のため誤解が無いようにいっておくが、芸術も人が作るものなら、間違いなくそこに意図がある。これを読み違えることの責任がどちらにあるかは検討の余地が大いにあるのため、差し控えるとして、芸術に許容された自由とはその意図の元にある。しかし一般にその意図は凡人にはあまりに裾野が広く、それでいて、確かな方向性を提示してくれる。
私が自由と呼ぶのはその意図の上、その方向性に習った、あるいは派生しうるもののことであり、読み取りうる作者の意図を無視したものではない。

私が消化不良を起こしたのは、デレクの意図が想像以上に広く、示唆に富み、それでいて鋭いがためだった。


それにしても、客が少なすぎである。4本中2本は私しかそこにいなかった。
しかし、そこに誰かがいたからといって私と同じ印象をこれらの作品に持つとは限らないわけだから、本質的には1人で見ようと、2人以上で見ようとなんら変わりが無いのか。



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allcinema online
by nothing_but_movie | 2004-10-18 23:42 | Movie(C)
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